悼む人 関連エッセイ

天童荒太さんが、新聞や雑誌などに寄稿したエッセイをこちらでもご覧いただけるように再録いたしました。

亡き友人たちの激励

(2009年3月25日 産経新聞)

  その年長の友人との出会いは二十年前になる。漫画表現を仕事にし、自分の好悪に率直であろうとする生き方からか、ちょうど一回り違うのに若々しく見えた。私は映画の世界に入って間もない頃で、彼とも映画関係者の紹介で知り合った。長髪を後ろで束ねていた当時の私を見て、外見にはだまされないよ、という意味あいの挑発的な言葉をかけられ、この人とは合わないな、と感じたものだった。

  後日、彼を心に住まわせるにいたる変化は、彼と会ってほどなく、大学時代の親友が急逝したことに遠因がある。無頼的な雰囲気があった親友を失った寂しさからか、やはり無頼な感覚を大事にしようとしていたこの年長の友人たちのグループと、私は付き合いを重ねていった。

  彼は、売れたい想いはある一方、流行に合わせて自分を曲げることに不純さを感じる様子で、仕事は決して順調と言えなかったが、暮らしぶりは質実で、何事につけ邪心がなく、人間として信じられた。友人の芝居を一緒に見て、面白くない場合、私など感想の言葉をつい濁すが、彼は思うがままを話しても、嫌われることがなかった。私も一度印刷だけの年賀状を送った際、ひと言でも言葉を添えるようにと厳しく注意されたことがある。子供っぽい意見を吐くこともときにはあったものの、常にまっすぐな彼の言動は貴重に思えて好ましく、そのぶん親交も深まった。

  『悼む人』の準備に入った頃、彼から重い病気になったようだと連絡があった。電話の声は明るかったが、便が黒いのだという。たぶん、と予想した通り、検査結果はガンだった。頻繁な見舞いは迷惑かと思いながらも、妻と二度見舞った。最後に会ったのは明日手術というときで、何日も点滴だけでよく生きられるもんだよ、と自分の状態を茶化して語ってくれた。彼と彼の奥さんが、こちらの見舞いを恐縮がるため、精神的な負担を軽くできればという想いから、「ぼくにはこれも取材になりますから」と口にし、失礼な物言いになった気がして後悔した。そのときは『悼む人』の形は何も定まっていなかったが、のちに末期ガンの人物を描くことになった際、病院での明るかった彼の姿をしばしば思い返した。三ヵ月後、彼は亡くなった。

  直木賞発表の記者会見の席に臨む際、大学時代の親友の写真と、この彼の写真、そして最近亡くなった女性の友人の写真を、背広の内ポケットに忍ばせた。晴れがましい席だが、「浮かれるな、この三人のことを思え、つらい想いをしている人も大勢いる」と言い聞かせようとした。そして壇上に上がる直前、トイレで息を整えていたとき……不意に左肩の上辺りに、年長の彼と、女性の友人の存在を感じた。錯覚だろうが、このときは確かにそう信じられた。女性の友人は笑顔で、すごいことじゃないですか、喜ばなきゃだめですよ、と言ってくれた。年長の友人も笑いながら少し口をとがらせるようにして、そうだよ喜ばなくてどうする、おれたちはすごくうれしいよ、と言ってくれた。

  このあと、会見の席で笑うようにとカメラマンに求められたおりには、しぜんに表情をゆるめることができた。