悼む人 関連エッセイ

天童荒太さんが、新聞や雑誌などに寄稿したエッセイをこちらでもご覧いただけるように再録いたしました。

思い起こすままに(7)

(2009年3月号 オール讀物)

  介護はほとんど母が担った。母はもうブッシブをやめ、父の整体の仕事をサポートしていたが、介護ははたで見ていても大変だった。祖母は初めのうちは意識がしっかりしていたものの、次第に痴呆が進み、やがて実の息子の顔さえわからなくなって、子どものように母だけを慕った。「母ちゃん、母ちゃん、母ちゃん」と連呼する言葉が、短くつまり、「カヤ、カヤ、カヤン」と母を求める祖母の声は、いまも耳の底にある。

  おむつを交換するときの臭気は、ことに大きいほうの場合、たまらなくいやだった。幼い頃、排泄のことでは祖母にさんざん世話をしてもらったくせに、自分が祖母の下の世話をしたことは一度もない。階下に降りているよう母に勧められるまま、部屋から逃げた。祖母は口臭もにおうようになった。現在のように介護ケアのノウハウがある時代ではない。口腔ケアもままならず、部屋には祖母の発する様々なにおいが満ちた。

  私はそこでずっと祖母と過ごし、高校、大学の受験勉強も同じ空間でおこなった。いやだとか、つらいとかはなく、仕方ないこととして受け入れていたが、それでも友人を家に呼べないので厄介な感じはあったし、痴呆の進んだ祖母が延々と母を呼びつづける声に、苛立つこともたびたびあった。いまも思い出すと胸がしめつけられるが、動けなくなった祖母の額を、軽くにしろ、ぽんと打ったことも数回あった。

  祖母との五年間は、表現者となった立場から振り返れば、かけがえのない学びの場だった。

  人間がどのように老い、どのように死に向かうか。それに対し、家族や周囲の者がどのように反応し、行動するか。祖母の緩慢な衰えの日々のなかで、私は思春期を送り、ほかの家族の者もそれぞれ大切な人生の折返点を過ごした。深刻な雰囲気にまで陥ったことはないものの、家族というものが、つねに温かく、楽しい、団欒の場でばかりありつづけるわけではないことを、身に沁みて理解した時間でもあった。
(つづく)