悼む人 関連エッセイ

天童荒太さんが、新聞や雑誌などに寄稿したエッセイをこちらでもご覧いただけるように再録いたしました。

思い起こすままに(11)

(2009年3月号 オール讀物)

  葬儀の参列者に向かって長兄が読み上げる親族代表の言葉を、私は自分で書くことを申し出た。父は私が創作の道に進むことに反対だった。シングルの家庭で育ち、満州で様々な経験をし、友人にだまされ、経済的な困窮を何度も味わったことからくる、心配ゆえだろう。作家としてまだ確かな道を歩いていなかったが、だからこそ、今後も言葉を扱って生きる者の証だてとなるような弔辞を、彼に送りたかった。

  いつかはそういう日が来るだろうと予感があった上での最期だから、震災で亡くなった人たちに比べれば、幸いなほうだと、震災の様子が次々と映し出されてゆくテレビの画面を見ながら、家族と話したこともあり、そうした言葉を加えて、弔辞の下書きを進めた。 地方の新聞には、通夜や葬儀を知らせるため、亡くなった人の名前を、遺族が希望した場合はすべて掲載する欄がある。父のことも載っているかと思い、新聞を開いた。もちろん載っていたが、ほかにも大勢の人が掲載されていることに虚をつかれた想いがした。

  老人だけではなく、若い人や、子どももいた。死因については書かれていないものの、なかには、突然、というケースもあったに違いない。

  訃報欄にある幼い子どもや十代の少年がどのようにして亡くなったか、記事としては書かれておらず、つけっ放しのテレビでも、流れている映像は震災による被害ばかりだ。妙に胸がざわつき、前の日の新聞も開いた。やはり大勢が亡くなっていた。その前の日も同様だった。

  一月十七日の震災はこれからもきっと人々に記憶されていくだろう。けれど同じとき、別の場所、別の理由で亡くなった人もいる。その前日、あるいは翌日も、父のように、どこかで誰かがきっと亡くなっている。
葬儀で長兄が読み上げる言葉に、私はやはり、震災で亡くなった方々に比べれば、父や自分たち遺族は幸せだったと書き入れた。その気持ちに嘘はなかったからだ。

  けれど同じ日に、突然降りかかってきた不幸で亡くなった人が、ほかにも大勢おり、それを嘆き悲しんでいる遺族もいるという事実を、自分なりに、意識しつづけておこうとも思った。

  二〇〇九年一月十五日、『悼む人』が直木賞を受け、翌々日、震災から十四年目を迎えた神戸で、亡くなった方々を追悼するろうそくの火が揺れた。そして翌日、母は次兄夫婦と、父の墓参りをして、私の受賞の報告をしたという。