悼む人 関連エッセイ

天童荒太さんが、新聞や雑誌などに寄稿したエッセイをこちらでもご覧いただけるように再録いたしました。

叔父のこと

(2009年2月18日 北海道新聞)

  母の八歳年下の弟が亡くなった。

  五十三年前、私が生まれる以前のことだ。叔父は当時十九歳だった。
子ども時代よく母の実家へ里帰りしていたが、幼い頃には叔父の話を聞いた記憶はない。

  年長になるにしたがい、大人たちの話から漏れ伝わる断片から、若くして亡くなった叔父がいるという事実を知った。そして高校生の頃だったか、やはり大人たちの話の断片から、彼が亡くなった理由がわかった。

  叔父はみずから死を選んだ。

  不思議にショックはなかった。早い時期に表現家を志してきたせいか、自殺という行為にマイナスのイメージを持っていなかったし、なぜ叔父さんは、という疑問のほうが強かった。その問いに答えてくれる大人はいなかった。高校生には理解しがたい深い理由があるのかと思ったが、のちに、家族にも叔父の死の理由がはっきりしなかったのだとわかった。少し前まで笑っていたのに、元気そうだったのに…誰にも理由を告げず、いきなりのことだったという。

  いまは亡き祖父母に、わが子を自殺で失った翳りは、私が幼かったこともあり、まったく感じられなかった。記憶のなかの、にこにこ笑っていた祖父母は、わが子の死をどう受け止めたのか、おりおり考えることがある。どのように悲しみを乗り越えたのか…乗り越えるというものではなく、徐々に自分のなかにわが子の面影を苦痛なく住まわせるすべを見つけていったということなのだろうか。

  叔父は亡くなった当時、四歳上の兄と一歳下の妹と下宿していた。やはり私の叔父叔母にあたるこの二人は、一緒に暮らしていただけに突然の悲報に大きなショックを受け、なぜ彼の死を止められなかったのかと自責の念を抱いた。約十年前に話したおり、二人は四十年以上経ってなお完全に罪の意識から解放されているとはいえないのを感じた。

  「悼む人」の物語にとりかかる一年前、母の古いアルバムに亡くなった叔父の写真を見つけた。叔父はシャツの白さがまばゆい夏の学生服姿で、晴れた空の下で笑っていた。一緒に暮らしていた兄と草原でキャッチボールもしている。暖かい日差しに蒸された、草の匂いさえ感じた。叔父は家族に愛されていたし、彼のほうでも家族を愛していた時間が確かにあると、信じられる写真だった。

  「悼む人」を書きはじめ、死者への悼みについて考えを進めるなか、なき叔父にも想いをはせた。故人のことだけでなく、残された側の叔父や叔母の悔いや悲しみ、共に過ごした日々の愛や喜びにも想いがいった。そして、叔父二人がキャッチボールをしていたときの笑顔から感じられた日なたの匂いを思い返すと、遺族の悔いや悲しみよりも、共に過ごした頃の愛や喜びのほうこそ覚えておくことが、故人の望みにかなうという気がした。

  直木賞の贈呈式には、愛する弟をなくしたこの叔父が、出席してくれる。