悼む人 関連エッセイ

天童荒太さんが、新聞や雑誌などに寄稿したエッセイをこちらでもご覧いただけるように再録いたしました。

思い起こすままに(2)

(2009年3月号 オール讀物)

  両親の出会いは、満州だった。

  母は満州の新京にあった会社に就職が決まり、女学校を出てすぐに故郷宮崎から渡った。同じ会社で職を得ていた父は、現地召集ですでに社にいなかったものの、ほどなく終戦を迎え、兵役を解かれた男たちが社の寮に戻ってきて、母と父はそこで初めて会った。

  異国の地で不安にさいなまれながら帰国の途を探るうち、ソ連軍侵攻の情報と、もし捕まれば、独身者は真先にシベリアへ送られるという噂が流れた。父は、七つ年下の母に、名前を貸してくれ、つまりは偽装結婚をしてくれと頼んだ。母はまだ十七歳で、初めは断ったらしいが、緊急を要することだったため、名前だけならと承知した。

  平和な時代に暮らす息子の、いまの目から見れば、「親父の野郎、はっきり好きだ、結婚してくれと言えなくて、そんな手を使ったんじゃねえの」とは思う。明日はどうなるかという不安がつのるなか、シベリア送りの噂も信憑性があったろうが、どんな時代でもオトコとオンナの心のありようは普遍的なものがあると思うから、父の心情についても、あながち的外れではないだろう。

  しかし、そのあと二人はすぐには日本へ帰れず、ソ連軍と八路軍と国民党のあいだで翻弄され、父はほかの男たちと後ろ手に縛られて連行されたり、それに付き添う母も、道端に無造作に転がされている死体の山を目撃したりしつつ、一年後にようやく帰国の船に乗ることができた。

  海上でひどい嵐に見舞われ、寒さと死の恐怖にふるえつつ、どうにか舞鶴の港に到着したあと、父はそのまま母を宮崎まで送り届けた。

  偽装結婚で帰国を果たしたカップルは、ほかにもいたが、そのまま本当の結婚にいたった者は多くないという。うちは少数派だったおかげで、私という人間が存在し、拙著も発表できたわけだから、当時異国の地で亡くなった人々のことも考えあわせると、運命というものの前には、やはり粛然とこうべを垂れざるをえない。
(つづく)