悼む人 関連エッセイ

天童荒太さんが、新聞や雑誌などに寄稿したエッセイをこちらでもご覧いただけるように再録いたしました。

思い起こすままに(3)

(2009年3月号 オール讀物)

  古い写真で見る父は、息子が書くのもなんなのだが、細身で、ややロシア系にも見える顔だちの、わりといい男だ。ただし、私が直接知る彼は、すでに太っていて、服装への気づかいがなく、運動もさほどせずに、かっこよさとは無縁だった。彼は靴屋を営んでいた。別の靴屋に店員として勤めたのち、開業することにしたらしい。
  母はブッシブというところに勤めていた。生協のスーパーマーケットに雰囲気は近い。ブッシブ、ブッシブと家族が口にしていたため、私は意味がわからぬまま母の勤め先をそう呼んでいたが、店は国鉄の駅の裏手にあり、別棟の掘っ建て小屋のようなところが従業員の控室で、幼い私はよくそこで母を待った。のちに、ブッシブとは国鉄の物資部だったのだと気がついた。
  父は、お人好しというか、対人関係にやや臆病で、人に頼まれるといやと言えないところがあった。これものちに知るが、父はわけあって、いわゆるシングルの家庭に育った。このわけについては、親族中で私だけが知っている。なぜ私だけが知っているかという点も含め、語れば長くなるので、ここでは書かない。ともかく、父は母親(私の祖母)とともに親戚の家に身を寄せ、いとこたちのあいだで成長した。対人関係における、彼のある種の繊細さは、ここに起因していると思う。 私が生まれる以前、父は友人に強く頼まれて連帯保証人の印鑑を押し、だまされ、借金をすべて背負うことになった。母や祖母ともども、ひどく苦労した時代があり、よほどつらかったのだろう、子どもたちがうんざりするほど、ことあるごとに、「保証人にだけはなるな、友人を捨てても印鑑だけは押すな」と言いつづけた。
そうしたことがあったせいか、子ども時代は貧しいほうだった。家の前に川が流れていて、壊れたオモチャが捨てられていることがあり、兄二人がときどきそれを拾ってきた。足のないロボットや錆びついた車のオモチャでも、家では買ってもらえないのを承知していたから、とてもうれしかったのを覚えている。
  周囲も貧しい家が多かった時代だ。いつも同じ身なりの小学校の同級生が、あるとき突然学校に来なくなり、家に行ってみると、空き家になっていたなど、もっと貧しい子もいたので、べつに劣等感を抱くということはなかった。
(つづく)