悼む人 関連エッセイ

天童荒太さんが、新聞や雑誌などに寄稿したエッセイをこちらでもご覧いただけるように再録いたしました。

思い起こすままに(8)

(2009年3月号 オール讀物)

  祖母との生活を、後年、やや脚色して初めての小説に書いた。おむつを替えるときのにおいや、トイレットペーパーで股間を拭くときの音などは、経験したままを、いわば写生した。その作品が新人賞に選ばれた際、選考委員だった村上 龍さんと中上健次さんが、こうした部分のリアリティを評価してくださった。うれしかった。同時に、また祖母にお世話になった気がした。

  高校三年のとき、祖母のおむつを替えていた母が、ばあちゃんが息をしていないみたいだと言った。私はしばらく祖母の口や鼻の下に手を当て、頬も寄せ、息づかいを感じようとした。感じたと思った瞬間もあったが、それは障子紙の破れ目から吹き込む、すきま風だった。

  祖母の死後間もなく、使い古した布おむつを整理しながら、母がぽつりと、
「悪いけど、わたしはほっとした」
とつぶやいた。声は穏やかで、ほっとしたのは母だけでなく、祖母もだろうと信じられた。

  このときの母の言葉とほとんど同じ言葉を、のちに別の女性から聞く。

永遠の仔』という作品が、売れ行きをはじめ、テーマが多方面で反響を呼び、ある種の社会現象的な騒ぎになったことがある。わが家の電話は連日鳴りひびき、各種の原稿の依頼や講演依頼、出演依頼もつづいた。刊行前にはそんな騒ぎになると思っていないから、自宅の住所も電話も公的な名簿に載せていたし、玄関にも「天童」の表札を出していたため、小さな賃貸マンションの一室なのに、ピンポンダッシュまでされた。

  依頼を一つ一つ断ることに気をつかい、読者からの、胸が痛むような便りも届きはじめていた。 神経が次第に磨耗していくのがわかった。そのなかで直木賞の候補となり、周囲はさらに盛り上がって、縁の薄い人からも期待の声をかけられた。どこか遠い虚無的な場所へと、自分が連れ去られていくような感覚をおぼえた。疲労はピークに達し、このままでは肉体的にも精神的にも、危ないという意識があったが、支えてくれる人が大勢いるのに、勝手に梯子から降りることはできないという想いでいた。結局、選に漏れ、一緒に発表を待っていた編集者たちと残念会のようなものを持ち、やがて深夜になって、自宅へ帰るタクシーのなか、ずっとそばにいた妻が、ささやくように言った。

「皆さんには申し訳ないけど……わたしは、ほっとした」

その言葉が、胸の底にすうっと落ちた。自分のなかの無意識の願いが、言葉というかたちにされたように聞こえ、心身のこわばりがとけた。私という存在がいまここにいるということ、それが何より大事なのだと思ってくれている人が、最も身近にいる事実にも、救われた想いがした。
(つづく)