南町奉行所は、数寄屋橋御門内、現在の有楽町駅の東口の駅前にありました。根岸肥前守鎮衛は、歴代の奉行としては最長の18年、南町奉行を勤めました。当時、町奉行は北町と南町に別れ、隔月の交代制で業務を行いました。設置当初、南町奉行所は八重洲河岸にありましたが、時代が下るにつれ、数回の移転を繰り返し1707年に設置されました。また、江戸二里四方が管轄でしたが、じょじょに範囲が拡大し、1804年には、旧東京市(現在の千代田、中央、港、文京、台東と、江東、墨田、新宿の一部)を管轄とするようになりました。
白河藩主松平定信は、白河城内の「三郭四園」城下の「南湖」、そして、この築地の「浴恩園」を作庭していますが、定信が老中を辞してのち、将軍よりこの地を与えられたため、浴恩園と名づけました。江戸湊に面し、海水を引き入れた池泉回遊式庭園で、定信は、ここを江戸の拠点としましたが、文政12年の大火で焼失、明治維新以後は、海軍に接収され、さらに、大正12年には、日本橋にあった魚市場の移転に伴い、当時の面影はすっかり姿を消してしまいました。
鉄砲洲は、現在の中央区湊、京橋川が隅田川に合流する河口から南北へ延びる細長い洲を指し、形が鐵砲に似ていたからとも、大筒の試射場であったからその名が付いたとも、言われています。鉄砲洲稲荷神社は、もともと京橋一帯の産土神でしたが、海岸が埋め立てられるに従い、京橋から八丁堀そして、1624年に、現在の土地へと、海側へと遷座し、今日の鉄砲洲稲荷神社の基礎となりました。江戸で消費される物流が荷揚げされる湊の近くでであったため、海上守護の神として信仰を集めました。
現在の八丁堀界隈には、組屋敷とよばれる町方役人の屋敷があり、与力は一人三百坪、同心は一人百坪づつ宅地をもらい、幕末になると、同心の中には医者などに土地を貸して地代をとっていた者もいたそうです。彼らは、だいだい午前十時ごろ出勤し、午後四時には退出。元々は、与力25騎、同心50人でしたが、人数が増え、最大120人ほどの与力がいました。与力は羽織袴、同心は黒紋付の羽織に着流し姿で、とくに与力は「与力相撲に火消しの頭」と江戸三男と称され、庶民にも人気があったそうです。
根岸肥前守は南町奉行としてのほか、駿河台に私邸がありました。身分は旗本で、知行地が安房と上野にあり、坂巻と宮尾は、それぞれ知行地である安房より連れて来た根岸の家臣(陪臣)という身分です。
根岸の私邸跡は現在、日本大学が所有するカザルスホールの一角で、明治大学の道路を挟んで、向かい側一帯にあったという記録が残っています。駿河台の地名は、徳川家康が、江戸入府当時、駿河から連れてきた役人を住まわせたことから、その名が付けられました。
また、ここからほど近い杏雲堂病院のあたりには、江戸初期、「天下のご意見番」として知られた大久保彦左衛門の屋敷もありました
現在の王子駅の東口にあたるこの一帯は昔は一面の田畑の寂しい場所で、その中に榎があり、装束榎と呼ばれていました。 大晦日になると関東一円の狐が榎のもとに集まり装束を整え、近くの王子稲荷神社へ初詣をしたという伝説があり、その様子は、広重の浮世絵にも描かれています。
現在は榎のあった場所の近くに、装束稲荷神社と装束榎の碑があり、年末には、狐の面をかぶった行列が、装束稲荷から王子稲荷へと向かう「王子狐の行列」が新しい風物詩となっています。
王子稲荷は、関東稲荷総社の格式を持ち、江戸時代より庶民に親しまれてきました神社です。境内にある「狐の穴跡」は、落語「王子の狐」の舞台にもなっています。この「王子の狐」にも出てくる料亭「扇屋」は、王子稲荷、王子権現の参拝客でにぎわい、現在でも卵焼きが名物として知られ、「今は海老屋、扇屋などといふ料理茶屋出来て、其余の茶屋も其風を学ぶ事となりぬ」と蜀山人の随筆に書くほどの盛況ぶりでした。