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妙子、消沈す。<問題篇>竹本健治
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妙子、消沈す。

  その日、乙島妙子は朝から憂鬱だった。
  昨日、ふと気づいてしまった、我が身に関するある発見が原因だった。
  仕事でパソコンを使ったり、書類を作成したりしているぶんには気づかなかった。毎朝、新聞に眼を通しているときも。ところが、バイトの相田光瑠にある建物を地図で捜すように頼んだのだが、なかなか捜しあてられないで苦労している様子なので、ちょっと貸してごらんなさいと地図に眼を近づけたところ――
  何かおかしかった。蟻のように細かく印刷された町名や番地の文字が、眼を近づければ近づけるほど、ぼやけて見えにくくなってしまうのだ。
  疲れ目? 今日は一日じゅう書類と睨めっこしていたから? 初めはそう思ったのだが、それにしては何だか妙な具合だった。眼を近づけるとぼやけていた文字が、地図から顔を離すと逆に鮮明になるのだ。ただし、鮮明にはなっても、文字が細かすぎるために、結局はなかなか読み取れないのだが。
  これは疲れ目の症状じゃない。変だな、変だなと首をひねりながら、そうやって眼を近づけたり離したりを繰り返しているうちに、
  これって――?
  恐ろしい可能性が脳裡を過ぎった。たった今の今まで、そんなものが自分の身に降りかかろうとは。かつて、一度たりとて、夢にも、冗談にも思わなかったことを。
  老……眼……?
  そうだ。きっとそうだ。話に聞いている症状にピッタリ符合する。これが老眼? そしてそれがこの私に?
  ショックだった。そういえば、三つ四つ年長の知りあいの女性が、最近老眼が出てきて厭になるとこぼしてたっけ。でも、冗談じゃない。私はまだ三十九よ。それに心身とも人一倍健康。体力もそこいらの若い者には負けない自信がある。このあいだデパートの美容コーナーでチェックしてもらったところ、肌年齢も二十五そこそこだと言われて大いに気をよくしていたばかりだというのに。
  そんな動揺が素振りに出てしまったのだろう、怪訝そうな顔の光瑠を「ちょっと眼が疲れてるみたい。とにかくお願いね」とやり過ごしたものの、その後もなかなか仕事に身がはいらなかった。
  今朝は今朝で、いつもより念入りにシミや小皺のチェック。そういう眼で見てみると、目尻の皺が少しふえたようだ。ん? こんなところに黒子があった? ホウレイ線もちょっと深くなってない? え? 小鼻の横のこのシミ、ついこないだまで小さいのが三つだけだったはずなのに!
  それでますます気分がダウンしたところからはじまって、妙子はついつい自分の人生まで振り返っていた。若い頃から仕事が生き甲斐で、色恋沙汰の暇もなく働き続けてきたせいで、今まで独り身のまま来てしまった今の情況をだ。もちろん、結婚願望がないわけではなく、いい人がいればという気持ちはあるのだが、そのために積極的に動こうという気にはなれないでいる。だからこの情況も仕方ないと割り切っているし、このままずっと独り身でもまあいいかと思っているのだが、いざこうして否応なく老化現象を見せつけられると、このままでいいのかという焦りがひしひしとのしかかってくるのだった。
  そんなことをあれこれぼんやり考えるうちに、思わず小さな溜息をついてしまったとき、一人の婦人が事務所にはいってきた。近所のコンビニの店長夫人で、いつか老眼をぼやいていたのがほかならぬ彼女だ。週に一度はやってきて、ひとしきり何かをぼやいていくのがいつものパターンだが、今回はいっそう深刻な顔で、「もうホントに困ってんのよう」とはじまった。
  彼女が言うには、最近、若くてガラの悪い連中が急に店先にたむろするようになって、明らかにお客さんが減っているというのだ。

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