MISSION#03 2023年最大の注目作
『イーロン・マスク』刊行の舞台裏

「すべてが初めて」
世界同時発売
プロジェクトに挑む
――If you’re curious about Tesla, SpaceX & my general goings on, @WalterIsaacson is writing a biography

“テスラやスペースX、わたしの様々な事柄に興味があるなら、
ウォルター・アイザックソンが伝記を書いているよ”

2021年8月5日、突如投稿されたイーロン・マスクの1つのツイートに、世界中の出版社が騒然とした。
あの『スティーブ・ジョブズ』を書いた評伝作家が、イーロン・マスクを取材している!」

ウォルター・アイザックソン。米国『TIME』誌編集長や、CNNのCEOを歴任し、日本では100万部を超えるベストセラー『スティーブ・ジョブズ』の著者として知られる。当代一の評伝作家だ。イーロン・マスクのツイートが投下されたその時、文藝春秋翻訳出版部の衣川理花は、アイザックソンの『コード・ブレーカー 生命科学革命と人類の未来』の編集を進めていた。

イーロン・マスクのツイートは、翻訳出版業界ではかなりのビッグニュースでしたね。絶対に話題作になる!文春から出したい!と思うと同時に、版権獲得のライバルは少なくないだろう、という危機感もありました。特にビジネス書に強い出版社は絶対獲りに来るだろうな、って」

出版担当役員(当時)の飯窪成幸はすぐにGOを出した。

衣川から著者とテーマを聞き“魅力的な企画だな”と直感しました。イーロン・マスクは毀誉褒貶はあれど、世界で最も注目されている経営者であることは間違いない。こういう本を出版することで、大学生や若いビジネスパーソンにも“文藝春秋”という出版社をアピールできるんじゃないか、という期待もありました」

世界最大の話題作だけあって、ライツビジネス部の全面協力のもと、膨大な契約書を交わした。2023年9月12日(日本は時差の関係で13日)の世界同時発売が決定し、アイザックソンが書き上げた原稿が、徐々に衣川のもとに届いてくる。原稿には特殊な加工が施されており、流出した場合は出所が分かってしまう。さながら【最高機密】扱いだ。

届いた原稿に目を通していくと、冒頭から父による虐待や過酷な生い立ちについて壮絶な内容がつづられており、その後も“ここまで書いていいの!?”と驚くエピソードが続出。起業家の伝記は成功者として褒めたたえる作品が多いけれど、物語としての面白さが段違いで、興奮が止まりませんでした。イーロン・マスク本人も非常に取材に協力的で、元妻や喧嘩別れしたエンジニアなどもアイザックソンに紹介したんです。そのうえ、原稿チェックは無し。忖度ゼロのリアルな実像が詰まってます」(衣川)

世界的話題作になることは間違いなし。たび重なる会議を経て、上下巻各10万部、合わせて20万部という初版部数が決定された。これは、翻訳ノンフィクションとしては近年類を見ない大部数。文藝春秋にとって、すべてが初めての挑戦だった。

本書の編集を手掛けた翻訳出版部の衣川理花

「中身がわからない」本を売れ!

2023年7月、営業部の中野知功と平嶋健士は、20万部の『イーロン・マスク』販売計画を前に頭をかかえていた。本作は内容が発売日まで一切明かされず、その本文を読めた者は営業部に一人もいなかったからだ。

これだけの大部数の本なら、まず発売前にプルーフ(※)を用意して、書店員さんに読んでもらって、推薦文を集めてPOPや帯を作って…というのが営業の正攻法です。極端に言えば、発売日までの仕込みしだいで勝負がついてしまう。しかし、今回は全く内容が明かせず、プルーフどころか目次もわからない。定石とは何もかもが違ってました」(平嶋)
(※)発売前の書籍を簡易な本の形にして、PR・営業用に配る販促用品

手元にある情報は“あの『スティーブ・ジョブズ』を書いた伝記作家が、イーロン・マスクの公式伝記を書いた”というもののみ。

とにかく内容は間違いがありませんからお任せください!と、書店さんに愚直にアピールするしかなかった」と平嶋は語る。

だが、嬉しい誤算だったのが、書店の希望する仕入れ部数が想定よりも多かったことだ。中には「1店舗で1000部に迫る部数を仕入れてくれる店舗もあった」(中野)。全国の書店からも熱い注目が集まっている銘柄であることを実感した。こうして、発売日には多くの書店の「一等地」を確保できることとなった。

世代を超えて読まれる本に

9月13日、東京駅にほど近く、ビジネスパーソンが行きかう丸善・丸の内本店の1Fに『イーロン・マスク』が高く積まれている。書影の刺すような目力に、思わず手に取る通勤者も多い。

こちらを見据えるイーロン・マスクが印象的な表紙は、デザイン部・関口聖司の手によるものだ。「入れなければいけない要素を見事にクリアして本質のみ残す削ぎ落したデザインで、本国からもすぐOKが出て。オーラのある装丁を作ってくれた」と衣川も絶賛する。「日本版は上下巻に分かれているのですが、表紙で悩んでいた時『白黒の2トーンにしたら、店頭で書店員さんが並べた時に見栄えがするよ』と、営業部がくれた助言も決め手になりました」

書籍の紙や製本などを手配する資材製作部の赤川仁志が裏話を明かす。「表紙の顔、インパクトありますよね。このデザインは帯が少しずれると、マスクの顔が福笑いのように歪んでしまいカッコ悪くなってしまう。なので製本所と相談してカバーと帯は1/10ミリもズレないよう限界まで精度を上げているんです。実は、製本だけでなく紙の手配も大変で、この本は上下あわせて20万部分の用紙を、内容はまったくの秘密の状態で手配しなくてはいけなかった。『詳しいことは言えませんが、20万部分の紙を用意しておいてください』って…もしキャンセルになったら製紙会社は大赤字ですよね。普段の文藝春秋の信頼があってこそ、調達できた20万部だと思います」

各部署の連携により、発売日の書店での売れ行きは好調だった。中でも「10代から高齢者まで幅広く買われていたのが嬉しい驚きだった」と語るのは営業部の平嶋だ。「読者ターゲットがあまり限定されると、その後の伸びが苦しくなることも多い。ジャンルや世代を超えて面白いよ!とお薦めされる本は、売れ行きも期待しちゃいますね」

リアル書店に加え、ネット書店も見事なスタートダッシュを飾った。発売日『イーロン・マスク』上巻が、Amazon書籍ランキング1位に躍り出たのだ。営業部フロアに歓声が上がった瞬間だった。

本の表紙に発売日や賞味期限は書いてないですから、発売から何か月も売れ続けるロングヒットを生み出せるのが書籍営業の醍醐味。そのためには、書店の在庫と、話題性が常に両立していないといけない。帯やPOP、パネルなどの販促物で書店を活気づけるとともに、プロモーションや宣伝で世間の注目を絶えさせない。《欲しいと思った時に、常に書店にその本がある》ことが大事なんです。文藝春秋は営業とプロモーションの連携も上手くいっていると思っています」(平嶋)

まさにその「話題性」を担う宣伝プロモーション局では、向坊健、西崎航貴をはじめ、部員たちが「中身のわからない本」をPRするという難題に挑戦していた。

本をPRするには、通常だとあらすじや具体的なエピソードをまとめて、レジュメにして発売前から他メディアに売り込むんです。ところが『イーロン・マスク』は発売日まで中身がまったくわからない(笑)。そこで、アイザックソンへのインタビュー枠を確保し、『イーロン・マスク』について著者にじっくり取材できるような、骨太な報道・経済系の番組を選りすぐりプロモーションの方針を固め、衣川とともに企画を提案しました」(向坊)

狙いは当たり、テレビ朝日系「報道ステーション」、テレビ東京系「ワールドビジネスサテライト」、NHK「サタデーウオッチ9」「国際報道」など、多くの番組が著者インタビューを実施してくれた。特に「報道ステーション」のインタビュー放映後は大きな反響に繋がった。広告出稿は中高年世代をターゲットに「朝日新聞」「読売新聞」「日経新聞」の三紙に大型出稿。若年層~現役ビジネスパーソン世代に向けてはWeb広告を採用した。SNS広告の運用は入社2年目の西崎が担った。

主にX(旧Twitter)とFacebook / Instagramで広告運用をしました。様々な原稿を作成したのですが、『感情を逆なでしてしまった方々に、一言、申し上げたい』と、読者を煽り気味の原稿が一番反応が良くて、やっぱりマスクならではだなぁって実感しました(笑)。でもこの本を読むとたんなるお騒がせの経営者ではなく、誰も想像つかなかった天才的な事業をいくつも手掛けていることが分かる。今後は運用広告だけではなくインフルエンサーの推薦や、口コミ的な広がりも含めて、プロモーションを広げる予定です」

この本は特に「就職活動中の学生に読んでほしい」と西崎は語る。

学生の方などが就職活動にあたって、会社の未来がどうなるか、経済の未来がどうなるか、の参考になると思います。マスクが起こしたイノベーションは、日本の大企業が揺らぐほどの大きな影響力がある。就職先や働き方を考えるうえで、学ぶところは大きいですよ」

文春の“人間への興味”が
生んだ一冊

衣川は担当作が刊行されると、必ず書店を訪れその“店頭デビュー”をチェックする。ぴかぴかと輝く表紙に眼をやりながら、イーロン・マスクの突然のツイートに端を発するこのプロジェクトを振り返り、つぶやいた。

いわゆるビジネス書を好む、エリートの読者を抱えている出版社は他にもあります。そんな中、うちがこの本を出版することができたのは、文藝春秋ならではの“人間への興味”があると思います。本作は優れたイノベーターの話であり、傷ついた子供の再生の物語でもある。才能ある経営者だけど、人として危なっかしい部分だらけで、どこか憎めない。そういう二面性含めて丸ごと、文藝春秋の社風と合っていたような気がするんですよね。

この本はオール文春で出来た本だと思ってます。営業、宣伝プロモーション、資材製作…それだけでなく、校閲、デザイン、ライツ・法務、電子書籍編集部も…。それに各雑誌の編集部は本作の発売と同時に、関連記事を掲載して話題化を担ってくれましたし、文春オンラインも特集を実施。「本の話」ポッドキャスト編集部は読みどころ紹介エピソードを連日のようにアップしてくれて、週刊文春電子版は緊急イベントを開催しYouTube番組にもしてくれました。自部署の仕事で忙しい中、知り合いの作家さんやインフルエンサーの方に本書を広め、推薦コメントを依頼してくれた社員もいます。セクショナリズムがなく、みんなで良いものを作ろうと努力して、本ができたら会社全体で盛り上げる。文藝春秋は、本が好きな人が働くには、最高の環境だと思います」

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