重松 清×天童荒太 特別対談「命をめぐる話」

その日のまえに』や『きみ去りしのち』など、死にゆく者、遺された者の物語を描いてきた重松さん。

悼む人』、『静人日記』など、悼みという行為を通じて、生と死の意味を問うてきた天童さん。

二人の作家が、静かに語り合った――。

第四回:生と死を意識させるもの(1/3)

天童

お聞きしたいことがあと二つありまして(笑)。重松さんは、生きることと、死ぬこと、どちらが怖いと感じていますか。

重松

うーん……。僕は死ぬことのほうが怖いですね。生きることに対しては、ある種の辛さを感じています、怖さではなくてね。

天童

自分から質問しておいて何ですが、僕は、生きることと死ぬことのどっちが怖いかということは、わりと変化していく気が、このところ実感としてあるんです。以前はもちろん死が怖かった。でもこのところは、怖さとは違う。いま死ぬってことになれば、そりゃいやちょっと待ってくれとじたばたするけど(笑)、それが来ることについては、一応もう覚悟はしています。遺してゆく者たちへの未練とか愛着とかは強くあるけれど、誰にも来ることだし、若くして亡くなった人に比べたら充分よく生きてこられたわけで。これが年を取っていくこと、経験を積んでいくことかななどと思ってます。傷ついたり傷つけたりしながら、多くの死を見送り、年を重ねていくと、本来は生きることのほうが怖いことだったんじゃないかということに気づいていって、その怖さを乗り越えてきた自分や周囲の人たちは、それなりに勇気があったんじゃないかと感じることがあります。

重松

僕は、友達や身内の死んだ人のことを思い出したときに、ふと「生きるって何だろう」と考えているんです。ふだんは思わない。見て見ぬふりをしているというのかな。だから、小説とか芸術って、生と死というものを意識させてくれる一つの装置なのかもしれません。

天童

そうですね。

重松

意識した後に、読み手が日常生活の中で一生懸命作ってきた砦に、ひび割れが入り、不安になってしまうのが文学だと思います。一方、「まあ、難しく考えたらいろいろあるけど、四の五の言わずに生きるか」という俗な部分を肯定するのが読み物だというのが、僕なりの定義です。だから、僕の書いているものは決して文学ではなく、スキルの意味でも小説ですらなく、日常と地続きの安心感を与える読み物なんです。でも、天童さんの小説って、やっぱり読んでいる人の足元を揺るがせる。僕自身はそこになにより惹かれています。

天童

もったいないお言葉です。では気を取り直して(笑)、もう一つ、重松さんは幽霊を見たことがありますか?

重松

幽霊ですか(笑)。僕ね、そういうのがまったくないんですよ。霊感やスピリチュアルなものはほんとに苦手というか、たしなみがないというか。僕たちの時代って「オカルト」ブームがありましたよね。それにも全然興味が無かった。

天童

へえー、そうだったんですか。

重松

現世利益です(笑)。天童さんはありましたか?

天童

一度だけありますね。家内が結婚前に暮していたアパートに出るという話がありまして。寝ているときに何本もの手がウワーッと伸びてきて、大声を上げて起きたことがあります。もちろん夢かもしれませんけど、臆病なもので、以後はずっと、おれはもう見ないことにしたからって感じで(笑)、そっち方面の意識は切ってるんですよ。ただ、スピリチュアルなものは信じているほうですね。

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