取材記「旅への招待」

『きみ去りしのち』は、旅の物語です。
重松清さんは二年にわたる執筆の間に、小説の舞台となった、全ての地を訪ねています。
「連載の立ち上げ」となる取材や、「ラストシーン」の取材には、担当編集者だった私も、同行させてもらいました。

二〇〇七年八月二十六日午前十一時――。重松さんは、北海道の離島、奥尻島に降り立ちました。早朝五時に自宅を出て、空路で函館へ。飛行機を乗り継いで、ようやく奥尻島に着きました。
「ようこそ奥尻に来てくださいました。さあ、どこからご案内しましょうかね」。島の案内を依頼していたタクシーの運転手さんが迎えてくれました。
「まずは、『賽の河原』へ行ってください」 と告げると、運転手さんは一瞬、不思議そうな表情を。それもそのはず、風光明媚な北海道の離島を訪れて最初に「賽の河原」へ向かう観光客など、あまりいないのかもしれません。
運転手さんは親切な方で、「賽の河原」に向かう道中、島一番の観光スポットへと立ち寄ってくれました。
「ここからの眺めは最高なんです。島を一望できますからね」と案内してくれた高台は、「北の果て」へ来たということを実感させてくれる絶景でした。

にこりともせず、観光といった雰囲気でもない男の二人連れに、運転手さんは何かを察してくれたのでしょうか。この後は、どこへも寄らずに、島の北端「賽の河原」へ向かってくれました。
無言で賽の河原を歩き、遠くの海を見つめて立ちすくむ重松さん――。私は、その視界に入らないように背中を見つめていました。しばらくすると、重松さんは「お待たせ。昼飯にしようか。せっかくだから島の名物を食べて帰ろう」と微笑みながら、浜から戻ってきました。名物三平汁を食べて、午後三時のフェリーで奥尻を出るという駆け足の旅でした。
取材と同時進行で、小説の執筆(オール讀物に連載)が始まりました。奥尻島は、第一部の二章の舞台となっています。言うまでもなくこの島は、百九十八名もの死者を出した北海道南西沖地震の被災地です。

運が悪かった、とあきらめればいいのか。運命だったんだ、と受け容れるしかないのか。
亡くなったひとも、のこされた人も。
どうなんですか――。
教えてほしい。だから私はこの島に来た。誰にも訊くこともできない問いを、青い空と、もっと深い青をたたえた海に放った。
あなたたちはいま、なにものも恨んではいないですか――。
(第一部二章より)

もし震源地が違えば……。もし津波の進路が島からずれていれば……。いくつもの「もし」が奥尻にある……。重松さんは北の果ての海辺で、このシーンを思い浮かべていたのでしょうか。

次へ
『きみ去りしのち』 重松 清ページトップへ