『その日のまえに』や『きみ去りしのち』など、死にゆく者、遺された者の物語を描いてきた重松さん。
『悼む人』、『静人日記』など、悼みという行為を通じて、生と死の意味を問うてきた天童さん。
二人の作家が、静かに語り合った――。
重松
今日は「生と死」について、天童さんにお話をうかがいたいと思います。新年号にはちょっと重たいテーマですが(笑)。
天童
確かに、胃にもたれるかもしれない(笑)。でも、これだけ死の扱いに軽重のバランスがいびつになっている時代だからこそ、年の始めに語るべきテーマでもあると思います。
重松さんとは一度ゆっくり話をしたかったので、いろいろと刺激を受けられると思って、今日は楽しみです。
重松
その期待を裏切ってしまう前に、まず僕から聞かせてください。二〇〇九年の一月に、天童さんは『悼む人』で直木賞を受賞されました。そしてこの十一月には受賞第一作として『静人日記』が刊行されています。すばらしい作品でした。
天童
しょっぱなからなんだか怖いなあ(笑)。でも素直に嬉しいです。ありがとうございます。
重松
僕は『悼む人』の書評も書かせていただきましたが、本を読んだ人から天童さんのもとに、さまざまな反響があったと思うんです。おそらくそれは、単純に面白かったとか、あるいは泣けたとかいうレベルじゃなくて、もっと読者一人一人の実存にまで迫ってくるような受け止め方をされたものだったんじゃないでしょうか。
天童
読者の声として最も印象に残っているのは、多くの方が、自分の身近な人の死に対して、罪の意識を持っていたということです。もっと何かしてあげられたんじゃないか、死をくい止めることもできたんじゃないか、と苦しんでおられる。死者のことを、涙や後悔ぬきでは思い出せない人が、実際にはとても多いということにあらためて驚きました。
重松
読者からの反響に対して、天童さんはその答えとして、『悼む人』の主人公である坂築静人(さかつき・しずと)の日記を提示された。作家が読者へ示す答えとしては最良のかたちだと思いました。どうしてこれを書かなくてはいけないと思われたのですか。
天童
死者を善きことで覚える、という悼みの実践を、どのような死に対してもあてはまる形で示しておきたかったんです。
そして、そのような行為を繰り返す「この男がわからない」ということも大切にしたいと思ったんですね。悼みをわかったつもりで書いたら、たぶん死そのものに対して傲慢になる。どうすれば、静人のことをわかるだろうか、悼みの本質を伝え得るだろうかと、いろいろ試した末に、日記という形にたどりつきました。