『その日のまえに』や『きみ去りしのち』など、死にゆく者、遺された者の物語を描いてきた重松さん。
『悼む人』、『静人日記』など、悼みという行為を通じて、生と死の意味を問うてきた天童さん。
二人の作家が、静かに語り合った――。
重松
書き続けて、静人という人間がわかりましたか?
天童
いや、今でもわからない(笑)。
重松
『悼む人』の書評では「静人とは鏡である」と書きました。ある種の狂言回しみたいなもので、「人は静人という人物と出会った時にどんな反応をするのか」が『悼む人』の眼目ではないかと思ったのです。
天童
『悼む人』の構想を編集者に伝えるとき、よく口にしていたのが、静人は真空な人だということです。彼の周囲の人物を描くことで、中心にぼうっと円が浮かんでくるような形を目指していました。こんなことを作者が言うのはどうかと思うけど、ああいう男は、浮世離れというか、まあ現実にはいないわけです。
重松
いたら怖い(笑)。
天童
わりとウザいじゃないですか(笑)。
重松
そうかも。
天童
でも、もし、現実にこんな男がいるってことになったら、やっぱりちょっと嬉しいというか、生きてゆく上での遠くの灯のような存在になるんじゃないかと思いながら、『悼む人』を書いたんです。
重松
執筆の時系列で言うと、『静人日記』のほうが前だったとか。
天童
はい。作品内の時間もそうだし、作品としての成立時期も、もともと『静人日記』は、『悼む人』を発表する前に、そのバックボーンになるようにと、毎日つけていたものでした。
つけ続けているうちに『悼む人』では届け切れなかった人間の死、生、そこから炙(あぶ)りだされる人間の真の愛情みたいなものが、坂築静人という触媒を通して現れているのではないかと、『悼む人』とは別の作品として読者に届けたほうがいいのではないかという気持が芽生えてきたんです。
重松
『悼む人』の終盤で、静人の母が死を迎えます。もし、静人が母の死というものを体験していたら、彼の意識は変わりますか?
天童
大いに変わると思います。
重松
それを聞いて、ほっとしました。母の死によっても静人のありようが変わらないのであれば、彼は聖書の中の人間になります。文学ではなくて、むしろ宗教的な存在になってくる。静人だって、母の死を経験すれば、変わりますよね。ということは、『静人日記』は物語の時系列としても『悼む人』の前にあるわけですね。あくまでも前日譚、プレストーリーとして。
天童
『静人日記』はある年の六月で終わります。そしてつづく同じ年の七月からが『悼む人』の物語へと、つながっていく形になっています。だから発表の順番としては前後が逆になっていて、いわば『スター・ウォーズ』のエピソードの出し方のような(笑)。
重松
エピソード・ゼロなんですよね。