重松 清×天童荒太 特別対談「命をめぐる話」

その日のまえに』や『きみ去りしのち』など、死にゆく者、遺された者の物語を描いてきた重松さん。

悼む人』、『静人日記』など、悼みという行為を通じて、生と死の意味を問うてきた天童さん。

二人の作家が、静かに語り合った――。

第三回:罪悪感の正体(2/3)

重松

忘れていくことも含めて生きることなんだろうな、という気はしています。人は罪悪感を持ちながらも、どこかで折り合いをつけながらやっていると思うんですよ。その一方で、ほんとは折り合いをつけられるものじゃないというのが、無意識の中にあるんだと思うんですね。だから、折り合いをつけることで、よけいに罪悪感が出てしまう。
たとえばなんですが、よくセピア色の写真といいますよね。そこには時の流れがあり、時とともに薄れていく思い出があります。今、デジタルの時代になりましたが、亡くした人を写真で覚えておくときに、一切劣化しないデジタルデータだったなら、ちょっと厳しいかもしれない。何年経っても、昨日までずっといたような存在として背負わなきゃいけないというのはね。
僕にとっての時の流れというのは、やさしいものです。時の流れが癒してくれるものや、解決してくれるものを信じているんです。でも、そのやさしさというのは、あくまでも生きている人間にとってのやさしさであって、亡くなった人にとってはわからない。その都合のよさを使いながら生きている。そこへ静人が現れると困るんだよね(笑)。

天童

ハハハハ。

重松

たとえば天童さんにとって、「時が流れていく」というのは救いなのか、それともむしろ重荷を増していくものなのでしょうか。

天童

多くの人は、時が流れていくことで、それこそ七回忌、十三回忌と重ねることで落ち着いてくるのだろうと思います。節目節目で、死者の位置を心落ち着くものに後退させてゆく。それは先人の知恵だったんだろうと思うんです。でないと生きてゆくことが難しくなりますからね。でも一方で、そこからもれている人っていうのかな、「おれは時間がやがて解決するなんてことは信じない」とか、あるいは「自分の子どもが忘れられていくことはどうしても我慢できない」という人はきっといて、そうした人に向けての言葉はあまりなかったと思うんです。僕の立場としては、大勢の人より、そこからもれる少数の方たちに言葉を届ける表現者でいい、という想いがあるんです。

重松

なるほど。「立ち直る」という言葉は、じつは残酷なものかもしれない。元に戻るなんて、厳密な意味では不可能なのに。

天童

『きみ去りしのち』は、死の「扱い」ということを、真摯に、一途に表現された出色の作品ですけど、作中の幼い子を亡くした夫婦は、立ち直るということの、自分たちに最もしっくりくる「あり方」をなかなか見つけられずに苦しんでいましたね。

重松

人が立ち直るときに、何の思い残しもなく立ち直っているかといったら、実はそうではなくて、立ち直った人たちの根っこには何かが残っているのではないかと思います。時おり、まだ早いんじゃないか、ほんとに悲しみ尽くしたのか、という感情がわきあがってくる。それが罪悪感のような気がするんですよ。まだ足りない、いずれ立ち直るにしても、それは明日でもよくて、きょうはまだ泣いてよかったのかもしれないという思いです。

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