重松 清×天童荒太 特別対談「命をめぐる話」

その日のまえに』や『きみ去りしのち』など、死にゆく者、遺された者の物語を描いてきた重松さん。

悼む人』、『静人日記』など、悼みという行為を通じて、生と死の意味を問うてきた天童さん。

二人の作家が、静かに語り合った――。

第三回:罪悪感の正体(1/3)

天童

今度は僕から聞かせてください。重松さんの作品を拝読していますと、『カシオペアの丘で』や『その日のまえに』、「オール」で完結した『きみ去りしのち』には、死者を身近に感じながら、なお生きゆくことに対する罪悪感と、生者たちの「ゆるし」というテーマが通底しているように感じました。

重松

うーん。この罪悪感の正体を、一言で表現するのは難しいですね。
僕は、死については、「忘れる」というのが大前提だと思っています。死への距離感が変わっていくことはあると思うんです。死に軽重はないし貴賤もない。でも、もしかしたら遠近はあるかもしれない。関係性の中の遠近もそうだし、時間が流れていって、遠くなり、淡くなり、忘れていくこと――。『その日のまえに』で、家族を残して死んでいく奥さんの「忘れてもいいよ」という言葉。あれは、僕にとっては絶唱なんですよ。
『悼む人』で描かれている「覚えておくこと」「忘れないでおくこと」とは、対照的なところにある。でも、円環として同じところにあるような気もしているんです。

天童

ああ、かもしれませんね。重松さんの小説の登場人物が、罪の意識を感じるときは、どんなときなんでしょうか。

重松

死者を忘れる、ということそのものじゃなくて、たとえば再婚をするときであったり、あるいは一緒に住んでいた家を引き払って引っ越すとき、それから遺品を捨てるときとかね。何かその罪悪感を感じる場面、行為がイメージできるんですよ。じゃ、その根っこにある、忘れることを恐れる本質的な罪悪感が何かというのは、わかっていないんです、僕には――。

天童

重松さんは、忘れていくことへの恐れを抱えながら、その苦しみの中でもがいて、一つの旅を終えた後、次のステージへ歩き出す人物たちを描いてらっしゃった。それは、生とは、死の対極ではなく、死とともに在るのだという「気づき」の力を読む者に与えるし、死と向き合うだけでなく、ときにはいったん脇に置いて、歩き出すことを促す力を持っていると思うんです。

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