産経新聞大阪本社夕刊の土曜版に掲載されたオリジナル、15枚の「季節風」です。
この「もうひとつの風」には、語り手が変わっているものや、ここにはいない登場人物が、今回の単行本「季節風」に登場したりもしています。1カ月に1本、更新いたします。
二月に入ってから、「その話」は口にしないよう、妻の美由紀と決めていた。新聞や雑誌に「その話」が出ていたら、息子の和也の目に触れる前に片づける。テレビも、「その話」が出てきそうなたとえば恋愛ドラマや情報番組にはチャンネルを合わせない。
「でも、そういうのって、かえって不自然じゃないの?」
娘の菜穂はあきれ顔で言う。美由紀も「家の中でどんなにガードしても、街を歩いたらすぐに目に入っちゃうわよ」と苦笑する。私自身、ちょっと神経過敏かな、という気もしないでもない。
それでも譲るわけにはいかない。父親として、というより「男子」の先輩として、和也に悲しい思いをさせたくない。
「いいか、ちょっと聞け」
和也が風呂に入っている間に、美由紀と菜穂を呼び寄せた。
「このまえも言ったけどな、つらいんだよ、ほんとにあの日は……お父さんには、よーくわかるんだ」
「モテなかったから?」
菜穂が訊く。答えをわかっているくせに。女子大生といえば「ブリッコ」だった時代に青春を送った私には、いまどきの女子大生の辛辣な意地悪さがどうしても受け容れられない。ニッポンは、いつからこうなってしまったんだ?
「モテない男子にはつらいよね、それは、うん、わかるよ、お父さんの気持ち」
ムッとしながらも否定はできない。ああそうだよ悪かったな、と私はしかめつらで答え、そんな私を見て菜穂と美由紀は、やれやれ、と笑う。
「大学生の頃はよかったんだ、下宿で一人暮らしだったから。一番キツかったのは、やっぱり高校時代だったんだよ。家に帰るだろ、親父やおふくろがいるだろ、妹もいるだろ、みんな知ってるんだよ、今日がなんの日か。でも、なにも言わないんだよ。こっちから言うまで、みんな黙ってるんだよ。そのときの沈黙の重苦しさっていったら、おまえ、ほんとになあ、お父さん、四十四年間生きてきて、あれほどのプレッシャーって感じたことなかったんだぞ……」
あの頃はまだ「昭和」だった。高校生の男子の大半は、さほど女の子にモテることにこだわってはいなかった。むしろ、必要以上に要するに何人もの女の子からモテてしまう奴のほうが、なんとなく肩身の狭い思いをしていたものだった。
しかし、そんな頃でさえ、バレンタイン・デーだけは特別だった。モテない男子はわが身の現状を思い知らされ、「俺を好きになってくれるコは一生現れないんじゃないか」と将来の不安にさいなまれてしまう。
和也も、きっとそうなる。
親として認めるのは悔しいが、和也はモテない。子どもの頃からずっとそうだった。男子の友だちはそこそこいるのに、女子にはまったく縁がない。ニキビだらけの中学時代をへて、モテないなりに髪形や服装をやたらと気にするようになった高校一年生を終え、今年は高校二年生過去のバレンタイン・デーで獲得したチョコは、「義理」も含めてゼロ。まったくもってゼロ。きれいさっぱりゼロ。もののみごとにゼロ、なのである。
「ねえ、やっぱりお母さんとわたしだけでもチョコ贈ってあげようか?」
違うのだ。菜穂にはなにもわかっていない。誰からもチョコをもらえずに帰宅して、母親からチョコをもらうときの悔しさと情けなさと恥ずかしさといったら……寝床の中でそれを思いだすと、私はいまだに掛け布団を頭からかぶりたくなってしまうのだ。
「よけいなことはしなくていい。とにかく、知らん顔だ、知らん顔。平常心だ。いいな」
「ねえ、あなた、じゃあ晩ごはんは和也の好きなオカズに……」
「やめとけ、やめてくれ、頼む、それだけはやめてくれ」
「お父さん、わたし、匿名でこっそり郵便受けに入れといてあげようか?」
「バレるんだよ、それ。ほんとに、おそろしいほど勘が鋭くなるものなんだ、バレンタイン・デーのモテない男子ってのは」
すべてが身をもって経験済みというところが、われながら情けない。
大学四年生のときに美由紀と出会うまで、通算二十一年間チョコなしという父の記録を、わが息子よ、おまえはやがて更新してしまうのだろうか……。
*
二月十四日。和也はふだんどおりに家を出たらしい。朝食をとっているときも、いつもと比べて変わった様子はなかった、と仕事から帰宅して、美由紀に聞いた。
「帰りは何時頃だって?」
「今日はバイトのあとで予備校だから、九時過ぎになるんじゃない?」
なるほど。週に二日のコンビニのバイトと、週に一日通っている予備校の現役コースの授業が重なったわけか。他の日に比べると、チョコを受け取るチャンスは多い。しかし、そのチャンスの多さは、諸刃の剣である。収穫がなにもなかったときの落ち込みは、そのぶん深くなってしまうのだから。
「ねえ……ちょっと考えすぎなんじゃないかと思うんだけど」
「そんなことないよ」
「来年の受験のこととか、親として考えなきゃいけないことは、もっと他にあるんじゃないの?」
「受験も大事だよ。でも、バレンタイン・デーだって大事なんだよ」