山崎豊子
この小説が題材としている事件(外務省機密漏洩事件)は、1972年に起こった。そんな古い話なのに、今なお強く惹きつけられるのは、この小説は現在とつながる2つの悲劇を描いているからだ。まず、沖縄の悲劇――。69年11月、佐藤栄作首相とニクソン米大統領との会談で沖縄の「核抜き返還」が合意された。72年5月に施政権が返還され、沖縄県が発足した。
『運命の人』には、後継総裁をめぐる政争も描かれているが、現実の 「佐藤後継」をめぐる自民党総裁選は田中角栄、福田赳夫、大平正芳、三木武夫の4氏で争われ、その戦いのすさまじさから「角福戦争」と呼ばれた。田中氏が勝利し、他の3人も以後、次々と首相の座に就いた。小説には、彼らとおぼしき政治家が登場する。
ちなみに田中氏の愛弟子が小沢一郎前民主党代表。福田氏の系譜には森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫と首相経験者がずらりと並ぶ。麻生太郎首相は大平氏の系譜に連なる。
沖縄返還当時、「戦後は終わった」と言われた。しかし、沖縄にとって、戦後はまだに終わっていない。
日本に駐留する米軍の施設・区域は面積の約74%が沖縄県に集中している。それは県面積の約10%に当たり、沖縄本島にかぎると約18%に達する。沖縄は復帰を果たしても、「基地の島」という現実はなんら変わらず、米軍が駐留するが故の事件・事故が後を絶たない。『運命の人』は、このような「沖縄の悲劇」をもたらしたものに対する怒りに貫かれている。
もう1つは、沖縄返還交渉での「密約」をスクープした主人公・弓成の悲劇だ。
政治記者の仕事は権力を監視、その実態を解明することだ。そのために、権力者やその周辺にいる人たちに肉薄し、「真実」に迫らなければならない。
その過程で、私たちは「取材対象との信義」と「知り得た秘密の報道」のどちらを優先するかで悩み苦しむ。主人公の記者はできる限り報道したが、わずかな焦りと手違いから、事態は暗転し、家族も巻き込んで思いがけない運命の大波に翻弄されることになる。マスメディアのあり方や情報源との関係が何かと注目される昨今、この小説が弓成の悲劇を通じて問いかけるものは、実に重い。