もうひとつの風

産経新聞大阪本社夕刊の土曜版に掲載されたオリジナル、15枚の「季節風」です。

この「もうひとつの風」には、語り手が変わっているものや、ここにはいない登場人物が、今回の単行本「季節風」に登場したりもしています。1カ月1本、更新いたします。

僕たちの出航

新幹線の駅があるT市まで、船に乗ることになった。ふつうに鉄道やバスで行くのでは面白くない、と仲間の誰かが言い出したのだ。

もうわしら全員が揃うこともねえかもしれんのじゃけえ、なんぞ思い出に残ることしようやそんな方言をつかうことも、聞くことも、四月からはなくなるだろう。

僕たちは先週、高校を卒業した。

瀬戸内海に面した小さな田舎町を出て、進学や就職で都会に向かう。大阪が二人、神戸と福岡が一人ずつ、名古屋にも一人、そして僕も一人で新幹線の終点東京まで行く。

船に乗ろう。思いついたのは僕だ。T市は海に面して開けている。漁港もある。入り組んだ海岸線に沿った鉄道や国道を行くより意外と船のほうが速いかもしれないし、それになにより、船ならトオルがいる。

「トオルの船に乗せてもらおうや」

僕は言った。「それじゃったらトオルともお別れができるじゃろ」とつづけると、仲間たちは「なるほど」という顔になって、全員一致で賛成してくれた。

トオルは仲間の中で一人だけ、ふるさとに残る。親父さんのあとを継いで漁師になった。学歴よりも漁師としての経験を積むことのほうを選んだのだ。

でも、僕たちはみんな知っている。

漁師はトオルの第二志望だった。

あいつの第一志望ほんとうにやりたかったことは、いまはもう、この街から消えてしまった仕事だった。

                   *

トオルは島の子どもだった。湾に蓋をするような格好の小さな島から、本土(という言い方をすると、あいつはいつも怒っていた)に市営の渡し船で通ってくる。

距離にして一キロあるかないかの短い船旅だ。その気になれば泳いで渡ることだってできそうなのだが、島と本土の間の海は潮の流れが速く、そして複雑で、渡し船の船頭を三十年以上もつとめているトクじいに言わせると、「素人が舵をとったら、何年たっても港に着きゃあせんわい」実際、一昔前まではよその土地の漁船がしょっちゅう座礁事故を起こしていたのだという。

島の土地のほとんどは山で、人家は本土に面した海岸線に貼りつくように建ち並んでいるだけだった。病院もない。学校もない。ほんの十数人の子どもたちは皆、毎日毎日、渡し船に乗って学校に通う。トオルも小学校に入学したときからずっと、定員二十名の小さな船に朝晩揺られつづけていた。僕たち本土から通っている仲間は、しょっちゅうトオルをからかっていたものだった。「悔しかったら、自分の足で歩いて学校まで来いや」本気で怒ったトオルに頭を一発はたかれたこともあった。

ところが、高校一年生の秋、その生活が一変した。島と本土の間に橋が架かったのだ。

なだらかなアーチを描いた、きれいな橋だった。悪天候で通行止めになるときには自動でフェンスが道をふさぐ、最新式のシステムも組み込まれている。

開通のセレモニーでは、トオルをはじめ島の子どもたちが揃って渡り初めをした。県知事や市長と並んで橋を渡るトオルの顔はとても晴れやかで、誇らしげで、心の底から嬉しそうだった。

橋の開通に合わせて、島と本土を結ぶバス便ができた。その代わり、市営の渡し船は廃止され、トクじいは船頭の委託契約を解除されてしまった。

「まあ、トクじいも七十過ぎとるんじゃけえ、これで隠居よ……」

トオルは少し寂しそうに言った。トオルはトクじいの孫だった。小学生の頃は『将来のゆめ』と題した作文に「おじいちゃんのあとをついで、渡し船の船頭になります」と書いていたトオルだったが、高校一年生の終わりに提出した進路志望には、「東京か大阪の私立文系志望」と書いた。東京だろうと大阪だろうと、あいつはもう自分の足でどこまででも歩いていけるのだ。たぶん、島に橋が架かったのと同時に、トオルの心にも橋が架かったのだろう。

                   *

渡し船が廃止になってからも、トクじいは毎日、船着き場に来た。お役御免になった小さな船は、引き取り手も見つからず、「緊急用」という名目で船着き場の隅に係留されたままだった。トクじいは毎日その船に乗り込み、エンジンをかけて、調子を確かめる。でも、もやいで繋がれた船は身震いするだけで、港の外に出ることはない。それが終わると、トクじいは、かつて船の客が時間待ちをしていたベンチに腰かけ、ぼんやりと海を眺める。短いときでも小一時間、長いときには日が暮れかかる頃まで、カップ酒をちびちび啜りながら、ただ黙って海を見つめるのだった。

                   *

橋の開通によって、島の生活は変わった。開通したばかりの橋を通って真っ先に島に渡ってきたのは、自動車のディーラーだった。それまでは車とはほとんど無縁の暮らしを送っていた島のひとたちは、先を争うように車を買い、橋を渡って島と本土を往復した。

船着き場の近くにパチンコ屋の大きな看板ができたのは、橋の開通の一カ月後。その隣に、ショッピングセンターの看板もできた。

もう、本土の町は「わざわざ出かける」場所ではなくなった。島も、本土から「わざわざ出かける」場所ではなくなったのだ。