もうひとつの風

産経新聞大阪本社夕刊の土曜版に掲載されたオリジナル、15枚の「季節風」です。

この「もうひとつの風」には、語り手が変わっているものや、ここにはいない登場人物が、今回の単行本「季節風」に登場したりもしています。1カ月に1本、更新いたします。

ほんの少し欠けた月

両親はホテルのラウンジで最後の話し合いを終えると、ロビーで待っていたアキラを呼んで、テラスレストランに向かった。

話し合いに立ち会っていた母の友人は、ラウンジを出ると「わたしはここで」と言った。「いろいろごめんね」と申し訳なさそうに言う母に、友人は「元気出して」と笑って応え、アキラにも「ママのこと、よろしくね」と声をかけた。

アキラは黙ってうなずく。

「三年生だっけ、アキラくん」

また黙ってうなずいた。

「じゃあ、もうお兄ちゃんだもんね、ママのこと守ってあげられるわよね」

守るって、どんなふうにだろう。よくわからなかったが、訊くのはやめて、結局また無言でうなずいただけだった。

先を歩いていた父が、振り向いてこっちを見ているのがわかった。早くしろよ、と急かす顔ではない。なにやってるんだ? と尋ねる様子でもない。出がけに戸締まりを確かめるときのような、忘れ物はないな、もういいな、と自分自身に念を押すような、微妙に醒めて、微妙に寂しげな表情だった。

「なにかあったら、いつでも電話して」

友人に手を握られた母は、目にうっすらと涙を浮かべて「ありがとう」と言った。

「もしも必要だったら弁護士さんも紹介できると思うし」

「うん……でも、だいじょうぶ」

「とにかく、前を向いていかなくちゃね」

「……そうだね」

「アキラくんもついてるんだから」

ねっ、と友人はアキラに微笑みかけた。

アキラはうつむいて父のほうに歩きだす。

父はアキラがこっちに来るとは思っていなかったのか、ちょっと驚いた顔になってから、笑って迎えてくれた。

「先に行ってようか」

父は言った。母と友人の別れの挨拶は長くなりそうだった。

だが、アキラは首を横に振った。父と二人きりになるのが嫌だった。父のことが嫌いなわけではない。むしろ逆好きだから、二人きりではいたくなかった。

父も無理には誘わず、アキラと並んでロビーを眺めながら、「元気でがんばれよ」と肩に手を載せた。「これからも、ずっと、パパがアキラのお父さんだっていうのは変わらないんだから」

そして

「ママのこと、頼んだぞ。アキラは男の子なんだから、しっかりママを守ってあげてくれ」

さっきは訊けなかったが、今度は父になら、訊いてみたかった。

「どんなふうに?」

「うん?」

「どんなふうにママを守るの?」

父は少し考えてから、「押しつけちゃいけないな、ごめん」とつぶやくように謝って、答えてくれた。

「アキラは元気で、いままでどおりのアキラでいてくれたらいいんだ。それがママを守るっていうことになるんだよ」

「……パパは? パパはもう、ママを守らないの?」

アキラの言葉に、父は、ごめんな、と苦笑いを浮かべるだけだった。

                  *

日曜日の夜ということもあって、レストランには家族連れの客が多かった。

中庭のテラス席は九月いっぱいだから今夜までの営業だった。もっとも、九月の終わりにもなると、夜風は涼しさを超えて肌寒い。ランチタイムはともかく、夜になるとテラス席に出る客は誰もいない。

両親も室内のテーブルを予約していたが、アキラは「外でごはんを食べたい」と言いだした。

「寒いぞ」と父が言う。

「風邪ひいちゃうわよ」と母も言う。

二人が同じことを心配しているのがうれしくて、寂しくて、悲しくて、アキラは「外がいい」と幼い子どものように口をとがらせた。「絶対に、外で食べる」

両親は顔を見合わせた。だが、触れ合ったまなざしはすぐに、どちらからともなく横に流れてしまう。

「わがまま言わないの」

母がアキラをにらむと、父は「まあ、いいじゃないか」とアキラの味方についた。

両親の意見が分かれた。フロアマネジャーと小声で話しはじめた父の背中を母は少し不服そうに見つめ、ため息交じりにアキラに目を移した。

アキラ、なんであんなこと言ったのよ、と小声で叱られた。あんただってわかってるでしょ、今夜は特別なのよ、ファミレスでごはん食べたりするときとは違うんだから。

わかっている。

今夜の夕食は特別だ。家族三人でそろって食卓を囲むのは、これが最後三人が「家族」でいられるのも。