TOKYO YEAR ZERO 2007年10月12日発売
トップ プロダクション・ノート 三つの謎 その闇の世界 東京三部作とは デイヴィッド・ピース
 
「TOKYO YEAR ZERO」の著者に迫る
 
著者略歴
写真:デイヴィッド・ピース デイヴィッド・ピース
David Peace

1967年、イギリス、ヨークシャー生まれ。
作家になるのは幼い頃からの夢だった。

1994年、東京に移住。

1999年、『1974 ジョーカー』で作家デビュー。
2004年、第四長編『GB84』でイギリスでもっとも伝統ある文学賞
「James Tait Black Memorial Prize」を受賞。

現代イギリス文学の旗手。

ジェイムズ・エルロイ、ジム・トンプスンらのノワールを愛し、
ジェイムズ・ジョイスやサミュエル・ベケットらに傾倒。
ミステリと文学の垣根を蹴破る鬼才。

現在も東京在住。

デイヴィッド・ピース インタビュー
写真:デイヴィッド・ピース 長篇『TOKYO YEAR ZERO(トーキョー・イヤー・ゼロ)』は終戦直後の東京を舞台とした小説です。ピースさんは現在、日本に住んでいますが、それでもイギリス人作家がこうした作品に挑むというのは大きな驚きです。
そもそもはエドワード・サイデンステッカーの『立ちあがる東京――廃墟、復興、そして喧騒の都市へ』という本を読んだのがきっかけでした。関東大震災から昭和天皇の崩御まで、東京の歴史を追うノンフィクションです。この本の中に、一九四六年の東京で二体の女性の変死体が発見され、それが連続殺人者によるものだったと書いてあったのです。
ところがそれ以上のことは何も書いておらず、知り合いの日本人も、誰一人その事件のことを知らなかった。犯人がどんな男だったかということも。
小平事件のことですね。小平義雄という連続殺人犯が次々に女性を殺害したという。
詳細を知ったのは、“Shocking Crimes of Postwar Japan"という犯罪実話集を読んだときです。当時わたしは、七〇年代の殺人鬼ヨークシャー・リッパーに関する四部作を書いていたのですが、この事件に大いに興味を惹かれました。
そこから、『TOKYO YEAR ZERO』にはじまる《東京三部作》の構想を抱きはじめたんです。占領期の東京で実際に起こった怪事件をモチーフとして、戦争で破壊された日本という国が再生してゆく過程を追っていこうと。
もともとは四部作構想だったそうですが。
一九四五年八月十五日に物語がスタートする点は同じですが、東京オリンピックの年に終わらせるつもりだったのです。「東京」という都市の再生の過程を追うからには、日本が国際社会に復帰した節目であるオリンピックの年が終点になるべきですからね。しかし、モチーフとなりうる犯罪が見当たらなかったので、時代を占領期に限定し、三部作とすることに決めたのです。
つまり、三部作を通じて、三つの怪事件を描くと。
小平事件が第一作、次いで帝銀事件、下山事件となります。この三つは非常に興味深い事件ですし、占領期に日本が変化してゆく過程の節目に起こっています。GHQの指導により、日本が「逆コース」をとった――左翼的な動きを抑圧し、右への方向転換を行なった過程と、これらの事件とが連動しているように見えます。
それぞれの事件は、あとに行くにしたがって政治の介在が大きくなってゆくようでもありますね。
その通りです。三部作が描くのは、日本の古きものが甦る過程だということもできます。例えば、現在の日本の政治家の中には、敗戦という国家的経験を通過しているとは思えないような人物がいます。戦前、戦中を通じて政治に関わってきた一族もいる。とするなら、果たして敗戦によって何かが変わったのか、変わったのならば何が変わったのか、そういう問題が出てきます。それを追求したいのです。
『TOKYO YEAR ZERO』はピースさんにとってアメリカでのデビュー作となりました。奇(く)しくもアメリカでは現在、日本の占領とイラクの占領を重ね合わせて、占領のいい面を訴えるような主張が出てきています。
アメリカは日本の占領を「よい占領」と称したりしていますが、占領期には米兵による犯罪はたくさん起きていました。ならば「よい占領」とは言えません。
何よりわたしが書きたかったのは、「敗北する」とは、「占領される」とは、どういうものなのか、それはどんな心理を生み出すだろうか、ということなのです。英語で書かれた占領期の日本に関する書物はすべて、例えばGHQに出入りしていたアメリカ人が書いたものであったりして、つまりは戦勝国の視点からのものです。けれどわたしは、占領期の東京での敗者の日常的な事柄に目を向けたかった。それは飢えであり、物資の欠乏であり、自分の国が破壊され占領されたときに人間はどのような感情を抱くのかという問題なのです。
太宰治の槌音が響く
写真:デイヴィッド・ピース 『TOKYO YEAR ZERO』の主人公は、小平事件を捜査する警視庁の三波警部補です。彼は戦争によってすべてを失った、いわば亡霊のような人物に見えます。
この作品は「過去の亡霊」についての小説でもあります。自分の過去、亡霊、そして罪悪感と、いかに向き合うかというのも主題です。
その意味で、主人公の三波は「日本」と同じなんです。一九四五年、玉音放送が終わった瞬間に、それまでのすべてが失われてしまう。
つまり戦後の「起点(イヤー・ゼロ)」ですね。
ええ。三波も、東京という都市も、その瞬間、一から再スタートしなくてはならなくなる。それが『TOKYO YEAR ZERO』というタイトルの意味でもあります。
このタイトルは、ロベルト・ロッセリーニ監督が一九四五年のベルリンを舞台にとった映画“Germany Year Zero"からとったものです。これも敗戦と占領がテーマになっています。
本書を執筆するにあたって、映画なども参考に?
新聞やノンフィクションももちろん読み込みますが、同時に、その時代を描いた映画や小説、音楽も参考にします。その時代の生活の細部を知るには、それがいちばんだと思うんです。日本人の心や行動についても、小説から学んだ気がしています。とくに太宰治の作品は、この作品を執筆する上で、ずいぶん参考になりました。
作中で、「トントン、トントン」という槌音が三波の内面で強迫観念のように響きつづけています。この「音」は太宰からの影響ですね。
ええ、『トカトントン』です。ただ、実際に終戦直後の東京では、こうした音が始終、聞こえていたという話を、当時を知る人物から聞きました。東京が復興してゆく音ではありますが、本書の三波にとっては、彼にとって大事だった「ある人物」の棺(ひつぎ)に釘を打ち込む音、死を意味する打撃の音なのです。彼の中でつねに聞こえている狂気の音と言ってもいい。作中で響きつづける「トントン、トントン」という音には、そんな二つの意味が重ねられています。
敗戦によって日本人の心性がどう変わったか、というのを一般論で語るのは難しいでしょうが、少なからぬ人々の心が、大きな変化をくぐったことで脆くなったことはたしかでしょう。三波もそうなのです。三波は戦中に体験した悲劇を悔やみ、罪悪感を抱えている。そうしたすべてが、「トントン、トントン」という音に象徴されています。
もっと大きくヘヴィな物語
写真:デイヴィッド・ピース 進駐軍兵士向けの売春施設が本書に登場します。これは実際にあった施設ですが、そこで三波は、まだ少女のような娼婦が半ば強引に米兵に犯されるのを目撃します。あれは本書の中で、もっとも衝撃的なシーンでしょう。
あのシーンはこの小説のキィになる場面です。書いている最中、わたし自身、激しい憤りと狂気めいたものに駆られていました。あそこで三波が感じる憤怒は、「占領」という事態についての怒りでもあるんです。同じようなことが、現在、イラクでも起こっているのではないでしょうか。
日本の敗戦のメタファーなのでしょうか。
そうですね。この小説全体について言うなら、『TOKYO YEAR ZERO』は「反=男性性(アンチ・マン)」というべきものを主題にしています。戦争においては――平時においても――犠牲となるのは必ず女性と子どもたちなのです。占領期には、国家が設けた売春施設でアメリカの男性が日本の女性に犠牲を強いていた。一方では小平義雄という日本の男が、日本の若い娘を殺していた。アメリカ人がどうとか、日本人がどうとかいうのを超えて、一般的な「男性性」が本書での問題なんです。
《東京三部作》の残る二作では何が描かれるのでしょう。
帝銀事件を扱った二作目には、アメリカやソヴィエトの人間も登場します。時代は冷戦に入りかけていて、日本は両陣営の狭間にありましたから。彼らがさまざまな陰謀の糸を引くことになるでしょう。日本の国粋主義者、共産主義者も大きな役割を負います。
『TOKYO YEAR ZERO』では、警察の上層部が黒幕として見え隠れしていました。
彼らも再登場しますよ。傀儡(かいらい)として、米ソそれぞれの思惑と陰謀の手先を演じる予定です。けれど、わたしとしては、次の作品を単なる『TOKYO YEAR ZERO』パート2にはしたくありません。もっとヘヴィで、もっと大きなスケールの作品になることでしょう。国際社会と戦争犯罪の問題が焦点となります。
いずれにしても、『TOKYO YEAR ZERO』にはじまる三部作は、簡単にジャンル分けできない広がりのある小説ですね。ミステリであり、文学であり、社会と歴史についての考察でもある。
そもそもわたしは、ジェイムズ・エルロイやジム・トンプスンのようなミステリ作家だけでなく、ウィリアム・バロウズやサミュエル・ベケット、ジェイムズ・ジョイスといった作家も愛読していました。小説をジャンルで分けるのはあまりぴんとこないんです。
エルロイもジョイスもH・P・ラヴクラフトもわたしにとって同じように大事な作家で、同じように影響を受けています。いいものか、そうでないものか。小説とはそういうものではないでしょうか。
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