解説 津田大介

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実のところ、僕もウッフィーによって多くの恩恵を受けている人間だ。1997年に出版業界の片隅で実用系のIT・パソコンライターの仕事を始めた僕は2001年頃に大きな転機を迎えた。原稿を書いていた雑誌が軒並み廃刊になっていったのである。インターネット・パソコン雑誌ブームが去って仕事が激減した僕は自分の「名前」を売り、仕事を取ってくる必要性を認識した。

そこで02年1月、ネットの世界にブログブームが到来する2年前に、ブログの原型とも言えるようなツールを自分でセットアップし、デジタル音楽と音楽産業に関する分析を専門的に書くブログをオープンした。それまで原稿料をもらって依頼された仕事をこなしていた実用ライターの僕にとって、無料でも「自分なりの見解」を好きなようにネットに毎日書けるという行為には新鮮な驚きがあったのだ。

当時は、その後一大ブームを起こすことになるアップルのiPodの初代モデルが発売されたばかり。デジタル音楽についてまとまった情報を集めるようなサイトは日本にはほとんどなかったため、程なく僕のブログは話題を集め、アクセス数も増えていった。ブログ更新にのめり込むようになった僕は、時間やコストをかけてブログのコンテンツを充実させるようになっていく。ライターとしての収入は激減していったが、名前を売るという目的は徐々に果たされ、ブログを見た編集者から僕の書いている専門分野に関する原稿の依頼が来たり、メディアや一般企業から講演の依頼が舞い込むようになった。

そうした活動が認められたのか、06年からは国からもお呼びがかかり、文化庁で著作権法の政策を決める審議会にも専門委員として呼ばれるようになった。僕は03年からジャーナリストを名乗るようになったが、「ジャーナリスト」を名乗れるだけの自信が付いたのは、自分の見解を書いたブログを見て、仕事の依頼が来たということが大きい。僕はオンラインに希少性の高い情報を無償で提供する見返りに、仕事や自信といった多くのものを得ることができたのだ。

もう一つ、得られた大きな財産は、ネットによってつながった数々の友人たちだ。僕は普段の著述活動と並行してエンターテイメント系のウェブニュース媒体である「ナタリー」というサイトの運営にも携わっている。ナタリーを運営する株式会社ナターシャの社長・大山卓也とは02年にブログの運営を通じて友人になり、05年に共同でナターシャを創業した。その後、多くの人材がナターシャに入社したが、中心メンバーのほとんどは僕や大山がネットを通じて知り合った人材ばかりである。自分にとってはブログを更新することも人と会って何か新しくプロジェクトを始めることも、単にエキサイティングだったから損得を考えずやっていたに過ぎない。だが、それが自然と自分のウッフィーを高める結果につながっていたのだということが本書を読んで確信できた。

僕がツイッター上でやっていたことがなぜ話題になったのかも、ウッフィーで考えれば説明が付く。

07年4月という早い段階からツイッターを使っていた僕は、使って間もなく、ツイッターの持つリアルタイム性と情報の伝播力に可能性を感じ、参加したシンポジウムのパネリストの発言要旨をその場で「報道」として、ツイッターに流す行為を始める。自分が参加した審議会から、僕の専門の著作権問題を考えるシンポジウム、お笑いイベントの記者会見から、「体罰」を考えるシンポジウムなどなど。中でもとりわけ注目を集めたのは09年5月に行った「週刊誌の将来」を考えるシンポジウムだ。この中継ログをまとめたサイトには多くのアクセスが集まり、ついにはツイッターでイベントの中継をすることが僕の名前を取って「tsudaる」と呼ばれるようになった。

これらツイッター上の実況中継はいくら書いても書いても、そのことで原稿料がもらえるわけではない。交通費や手間を考えると、明らかに持ち出しだった。

市場経済上ではマイナスの収支がどんどん積み重なっていったわけだが、ギフト経済上は逆だった。イベントの主催者や参加者、さらにはイベントに参加できなかったが、ツイッター上の実況中継でそのイベントを追うことのできた人たちなど、多くの人から感謝のコメントをもらい、ツイッターのフォロワー数も増えていったのだ。つまり、ネットの人たちが興味を持ちそうな情報をプロの記者としての能力を使って提供し「奉仕」することで、ウッフィーが上がっていったのである。

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