重松 清×天童荒太 特別対談「命をめぐる話」

その日のまえに』や『きみ去りしのち』など、死にゆく者、遺された者の物語を描いてきた重松さん。

悼む人』、『静人日記』など、悼みという行為を通じて、生と死の意味を問うてきた天童さん。

二人の作家が、静かに語り合った――。

第二回:物語から歴史へ(2/3)

重松

残されたものたちは、亡くなった人に対しての罪悪感を持っていますよね。その罪悪感を、少しずつ、薄めてきたのに、静人がボンッとひっくり返してしまいます。言ってしまえば、静人はトリックスターなんですね。悪意に満ちたトリックスターが本質を暴くという小説はありましたが、無垢なる善意で暴いていくトリックスターは相当珍しいのではないでしょうか。

天童

静人って、見た目がいい奴だからよさげに見えるけど、実は嫌な奴かもしれない。でも、嫌な存在が常識的な世界に飛び込んでこないと表現できないものってあると思うんです。

重松

わかります。だから『静人日記』の後半に、ナルオとタキさんという人物が出てきて「人が人を悼むことは不遜ではないか」という本質的な問いかけをします。僕はここでもほっとしたんです。この日記は、静人の正しさを補強するためのエクスキューズではないと理解できたから。

天童

むしろ迷いや悩みの表白ですね。こんなことをつづけていいのか、意味はあるのかって。不遜であるということも分かっていないと、静人の旅は、独りよがりを続けるだけになってしまいますから。

重松

もし、悼む行為が打ち破られるとしたら、どういう状況なんだろうかと考えながら読んでいたんですよ。

天童

重松さん、それはなんでしたか?

重松

嘘をつくことだと思いました。ライターとして週刊誌で原稿を書いていますとね、被害者の生きた日々が美化されて物語られるという経験をすることが多いんです。騙すための嘘じゃなくて、どうしようもなく美化してしまうというのかな……。それは残された人間の弱さでもあるんですけれどね。

天童

美化された物語でもいいんじゃないかと、静人はだんだん思うようになったところがあります。事実だけを悼むことは不可能だと、悼みを重ねるほど彼は知ってゆく。死者について語られた人生が事実じゃなくて、遺された者が美化した物語だとしても、静人はそれも一つの真実として受け入れるようになる。結局大切なのは死ではなく、生きていかなきゃいけない者たちのこと、生だと、実感してゆくからでしょう。

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