◆大役を果たして安心したんじゃろ

橋の開通から半年後、島に初めてのビルが建った。『ホテル・アイランド』ラブホテルだ。その頃から、週末の夜には、島にバイクの騒音が響き渡るようになった。「暴走族」と呼ぶほど硬派ではなく、ただバイクを乗り回して暇をつぶすだけの若造たちその中に、僕や仲間もいた。

僕たちが高校三年生になった春、島にゴミ処分場が建設された。橋から処分場へとつづく道路も新たにつくられ、バイクを乗り回す連中の絶好のサーキットコースになった。ラブホテルは三軒になり、捨て猫が増えた。六月に市営斎場の建設計画が持ち上がり、七月の市議会であっさり可決された。橋は、島のひとびとが求めるものも運んで来てくれた代わりに、望まない本土で邪魔物扱いされているものも次々に運んできたのだった。

橋の開通から一年半で、三軒の家が本土に移り住んだ。本土と陸続きになった便利さは、「だったら、べつに島に住まなくてもいいじゃないか」という発想も生んでしまったのだ。

橋は、島の暮らしをこんなにも変えてしまった。それが幸せなことだったのかどうか、誰にもわからない。

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その年の秋要するに半年前、台風が島を直撃した。僕たちは面白がって夜中にバイクで島に遊びに行き、暴風雨の中でスリル満点のサーキットを楽しんだあげく、カズオが事故を起こした。横転したバイクが燃えあがってしまったほどの大きな事故だった。

カズオは意識こそしっかりしていたものの、全身を舗道に叩きつけられて、体のあちこちを骨折しているようだった。内臓も、もしかしたら痛めているかもしれない。トオルの家まではなんとか運んだが、一刻も早く病院に連れていかなければならない。

でも、橋のたもとには、通行止めの赤いライトが灯り、フェンスが道路をふさいでいた。本土側にある管理事務所に電話をかけても、誰も出ない。通行止めのフェンスが下りたことを確かめてひきあげてしまったのだろうか。

どげんする……。みんなで顔を見合わせたとき、トクじいが部屋に入ってきた。雨合羽の上下を着込み、目深にかぶった帽子の顎紐を結びながら、「おう、船に乗せちゃれ」と言った。「向こうの港に救急車を待たせとけ。五分で連れてっちゃるけん」

僕たちは船室にカズオを寝かせ、激しい揺れに備えてカズオの両手両足を押さえ、ただひたすら神さま仏さまに祈った。

船が動き出した。約二年ぶりの出航だった。腰に命綱を巻き付けたトクじいは、トオルを操舵室に呼び、「よう見とけ! 嵐のときはこげんして舵をとるんじゃ!」と怒鳴った。

トクじいは、みごとに船を操った。本土の船着き場では、漁協のひとたちが拍手と歓声で僕たちを迎えてくれた。

カズオは待機していた救急車で病院に運ばれた。あのまま朝まで待っていたら命にかかわっていたらしい。

救急車が走り去ったあと、トクじいはびしょ濡れになった帽子を脱いで、黙ってそれをトオルに手渡した。トオルも無言で帽子をかぶり、夜の闇にぼんやり浮かび上がる橋を見つめた。にらみつけるように、黙って、いつまでも見つめつづけていた。

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トクじいが亡くなったのは年の瀬が押し迫った頃だった。ふだんどおりに晩酌を楽しみ、ふだんどおりに床について、それっきり苦しんだ様子もなく、眠ったまま、ことん、と心臓が止まってしまったのだ。

大往生だと誰もが言った。「若いひとの命を救うてあげて、大役を果たして安心したんじゃろ」と言うひともいた。葬式のときに誰よりも大きな声をあげて泣いていたのはカズオだった。カズオは四月から大阪の専門学校に通う。救急救命士の資格をとるんだと、張り切っている。

そして、トオルは年が明けるとすぐに進路変更の届けを出した。取り寄せていた私大の願書をすべて捨てて、船に乗る、と決めた。

一人息子のトオルが跡を継ぐことを半ばあきらめていた親父さんは、もちろんその決意を大歓迎で受け容れた。トオルはさっそく下働きとして船に乗り込み、三学期はほとんど学校には顔を出さなかった。