こちらのエッセーは、このサイトのために書き下ろされたものです。これから季節ごとに1本ずつ、
重松さんからのメッセージをお届けします。
春の陽気は「ぽかぽか」である。
この言葉、じつにのんきな響きである。幼児語っぽいと言えばいいか、大のおとながまじめくさった顔をして口にするのはちょっとはばかられてしまう語感 たとえば思いっきりシリアスな小説のキメの場面で不用意につかうと、それだけで緊張感が台無しになってしまいかねない。あるいはニュースのナレーションでも、著名人の葬儀の模様を伝えるときに「春のぽかぽか陽気のもと、先日亡くなった○○さんの葬儀がしめやかに……」なんてことは、まず言わない。言葉の響きそのものに、いろんな意味で「おめでたい」のんきさがまとわりついているわけだ。
当然、血気盛んでなにごとにもヒネずにはいられない少年や若者にとって、「ぽかぽか」とは口にしたくもないし聞きたくもない言葉の一つになるだろう。ぽかぽか陽気なんて冗談じゃない、オレに似合うのは木枯らし吹きすさぶ冬の空か、ぎらぎらした太陽がまぶしい真夏の空か、セーシュンの悩みをすべて吸い込んで哀しいほど青が鮮やかな秋の空なんだ……って。
少なくとも、ガキの頃のぼくはそうだった。春という季節は決して嫌いではないのだが、「ぽかぽか」だけはごめんこうむりたかった。同じ春でも、桜吹雪舞い散る春の嵐や、寒の戻りのぼたん雪にこそ、自分に似合いの「オレの春」はあるんだ、と思っていた。疾風怒濤 シュトゥルム・ウント・ドラングこそが青春の証なのだと、まことにうっとうしく憧れていたのである。
だが、四十代の折り返し点を過ぎたいま、春のおだやかさに少しずつ心が惹かれるようになってきた。「ぽかぽか」、いいじゃないか。言葉の響きまで、冬の寒さに耐えてきた大地のそこかしこに「ぽかっ」「ぽかっ」と草花が芽吹くような感じがして、悪くないじゃないか、と思うようになった。
たぎるような熱さではなく、身を切るような冷たさでもない「ぽかぽか」とは、もしかしたら、ぼくたちの暮らしの折り合いの付け方そのものなのかもしれない。
ひとは四六時中ハッピーに笑っているわけにはいかない。しかし、かといって、ひとつの悲しみに永遠にひたっていることもない。調子に乗っていると必ずどこかでしっぺ返しをくってしまうし、涙はいつか必ず止まるときがくる。
悲しみが少しずつ少しずつ それこそ三寒四温のようにゆっくりと薄れ、この世界で生きていくこともそう捨てたものじゃないな、と笑顔を取り戻した頃、心がぽかぽかする。
春は別れの季節である。卒業でもなんでもいい、もしかしたら夢との別れだってあるかもしれない。しかし同時に、春は始まりと出会いの季節でもある。別れの悲しみを噛みしめながら、新しい日々に顔を上げて歩きだそうとするとき、心はきっと「ぽかぽか」としか名付けられない温もりに満たされているはずなのだ。
ぼくの書くお話はどれも、疾風怒濤とはほど遠いユルさとヌルさである。そこをしょっちゅう批判されるし、自分でも情けないなあと思うことがしばしばである。
それでも、そのユルさとヌルさが、ほんのりとした「ぽかぽか」になってくれていたなら と、いつも願っている。
今度の作品集はいかがだっただろう。誰かの胸をほんのかりそめにでも「ぽかぽか」とできたなら、お話の書き手としてなによりうれしい。
もっとも、「ぽかぽか」とは、居眠りを誘うものでもある。途中で寝ちゃダメだぜ。あおむけに寝ころがって読んでるときに居眠りして顔の上に本が落ちると、今度の本、ハードカバーだから、マジに痛いからね。