もうひとつの風

産経新聞大阪本社夕刊の土曜版に掲載されたオリジナル、15枚の「季節風」です。

この「もうひとつの風」には、語り手が変わっているものや、ここにはいない登場人物が、今回の単行本「季節風」に登場したりもしています。1カ月1本、更新いたします。

ツバメ記念日

駅のホームで泣いた。

悔しくて泣いた。

誰かに嫌なことを言われたり意地悪をされたりしたわけではない。悔しさの向いている先は、わたし自身だった。

悔しさだったのかどうかも、じつはよくわからない。ほんとうは悲しくて流した涙だったのかもしれないし、疲れ切って、もう感情が揺れ動く力すら残っていない状態で、目から涙がぽろぽろと流れ落ちただけだったのかもしれない。

とにかく、わたしは泣いていたのだ。

ホームのベンチに脚を投げ出して座り、梅雨入り間近な空をぼんやりと見つめて、一人で泣いていたのだ。

二年前長男の宏樹を産み、育児休暇を終えて職場に復帰したばかりの頃の話だ。

その日は朝イチで大事な会議があった。出産休暇を含めると一年半近くのブランクがあるわたしにとっては、復帰後のスタートダッシュの成功がかかった会議だった。

何日も時間をかけてプレゼンの資料を集め、整理したといっても、それは自慢にはならない。休暇前のわたしなら終電まで残業をして、場合によっては会社の近くのホテルに泊まり込んで、三日もあれば仕上げられた資料だった。

でも、子どもがいるとそういうわけにはいかない。残業なんて無理だ。朝は六時起床、会社を出るのは定時の五時駅から自転車を飛ばして、なんとか保育園の延長保育が終わる六時ジャストに間に合わせている。家に帰ってからも、晩ごはんをつくって、宏樹をお風呂に入れて、寝かしつけて、もう一度自分のためにお風呂に入り直しているうちに、気がつけば日付が変わっている。

最初から覚悟はしていたとはいえ、現実は予想以上に厳しかった。

昨日は夕方の打ち合わせが予想以上に長引いて、六時に間に合わなかった。宏樹だけのために残業してくれた保育士さんたちへのお詫びもそこそこに大あわてで家に帰り、資料づくりの追い込みにとりかかった。夕食は冷凍食品。ごめんね、ごめんね、と宏樹に心で謝りながら、口では「早く食べてちょうだい、ほら、ぼーっとしないで、もぐもぐ、ごっくん、もぐもぐ、ごっくん……ほらぁ、ごはん食べてよ……」と、せかしどおしになってしまった。夜十時前に会社から帰ってきた夫に「お風呂、入れてくれる?」と頼むと、「なんだ、まだ入れてなかったのか」と責めるように言われたので、ちょっと喧嘩になった。

でも振り返ってみれば、十時過ぎにお風呂に入れたのが、結果的には大失敗だったのだろう。

明け方までかかってようやく資料が仕上がり、三十分だけでも仮眠しようかと思っていたら、寝ていた宏樹が急にぐずりはじめた。おでこに手をあてると、びっくりするほど熱かった。あわてて夫を起こし、救急病院の電話番号を調べていたら、激しい嘔吐まで加わった。

風邪だった。

病院で座薬を入れてもらい、ベッドでしばらく休んだら、熱は意外とあっさり下がってくれた。

重い病気でなかったことにホッとしたものの、保育園へは行かせられない。夫は「いいよ、今日はオレが会社を休んで看病するから」と言ってくれた。でも、病院からわが家に戻ってきた時点で、午前九時会議には間に合わない。

「……大事な会議だったの」

夫に言ってもしょうがない。わかっていても、言わずにはいられない。

「この会議だけじゃないの。今日休んだら、ああ、やっぱり育児と仕事の両立は無理なんだって思われちゃうの。そうしたら、もう、大事な仕事は回してもらえなくなるの。わかるでしょう? あなただって、そうするでしょう? いつ休んじゃうかわからないようなひとに大事な仕事なんて任せられないでしょう?」

あせるなよ夫は言った。わたしの張り詰めた気持ちをほぐすようにおだやかに笑いながら、「宏樹が大きくなってから、いくらでも挽回すればいいんだから」と言った。

わかってる、それくらい。

でも、理屈ではない。

「わたしは、いま、がんばりたいの……いましかできないこと、あるのよ……」

「でも、子どもを育てるのだって、いまがいちばん大切な時期なんだから」

わかってる、わかってる、わかってる。

でも、理屈の筋道が通れば通るほど、その隙間をすり抜けるように、違う思いが胸を突き上げてくる。

ベビーベッドで眠る宏樹に目をやって、つぶやくようにほとんど意識することなく、言葉が、するりとこぼれ落ちた。

「……宏樹を産んだのって、ほんとによかったのかなあ」

「おい」とがった夫の声で、自分がひどいことを言ってしまったんだと気づいた。

急にいたたまれなくなって、「やっぱり、会社行ってくる」と逃げるように家を出た。

電車が何本か目の前のホームに停まって、走り去っていった。わたしはベンチに座ったままだった。涙は止まったけど、立ち上がって電車に乗り込む力が出ない。