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やがてこの年の新たな乱歩賞受賞者が誕生した。
早速、「小説現代」を買ってみた。
受賞作は高橋克彦さんの『写楽殺人事件』だった。
優れた作品らしい。
だがそれよりも私が注視したのは選考経過だった。
高橋さんのすぐ隣に私の名前と作品名が印刷されていた。
しかも二次選考通過を示す太字になっていた。
最終候補まで、あと一歩だったのだ。
やれるかもしれない――初めてそういう気になった。
その瞬間、小説を書くことが私にとって本当のチャレンジとなった。
それまでは気休めに過ぎなかったのだ。

執筆中の第二作を徹底的に推敲し、書き直した。
応募したのはまたしても締切直前だった。
後悔しないよう、ぎりぎりまで粘ったのだ。
作品に自信はあった。
しかし一ヵ月後には次の作品にとりかかっていた。
落選が決まってから執筆を始めていたのでは
次回の応募に間に合わない、というのもあった。
だがそれ以上に、仮に受賞した場合にでも、
次の作品を用意しておいたほうがいいという計算があったのだ。
私にとって乱歩賞はゴールではなかった。
運良く受賞したとしてもスタートラインに立てるだけのことだ。
無論それが大変重要なことではあるのだが、
その後新作を出すのに手間取っていれば、
すぐに読者から忘れ去られるということもわかっていた。
読者は忘れっぽく冷淡だ。
そのことは乱歩賞ファンである自分が一番よく知っていた。
会社勤めをしながらでも、
一年に一作程度書き上げられなければ、
到底プロとしてはやっていけないだろう――そう考えたわけだ。

その年の五月に、 応募二作目の『魔球』が
最終候補に残ったという知らせが届いた。
舞い上がったのはいうまでもない。
必要書類を講談社に送り返す時には、
封筒に手を合わせたりもした。
だが受賞を願う気持ちのどこかに、
「いや今回はそんなことは考えないほうがいい」
という思いがあったのも事実だった。
これには二つの意味がある。
一つは、「どうせ受賞は無理だろうから、そんなことに心を奪われている暇があれば、現在執筆中の作品を少しでもよくすることを考えるべきだ」
という自分への戒めだ。
これについては説明不要だろう。
問題はもう一つの意味だ。
信じてもらえないかもしれないが、
「今回は受賞しないほうがいいかもしれない」と考えていたのである。

じつに奇妙な話である。
受賞を目指していながらも、 それを恐れる気持ちがあった。
なぜなら当時の私には、
作家としてやっていく自信がまだなかったからだ。
たった一作、たまたま評価されたからといって、
今後も同じかもしくはそれ以上のレベルを
維持できるとはかぎらないのだ。
自分でも、「やっていける」と自信が持てた時に
受賞するのが理想的だと思った。
ずいぶんと贅沢なことを考えていたものである。
受賞もしないうちから、
乱歩賞の看板の重さをプレッシャーに感じていた。
そのくせ、一ヵ月後に実際に落選した時には、
やっぱりそれなりに落胆したのだから、世話はない。

その時の選評を、例によって
「小説現代」で読むことになったのだが、
自分の書いた小説について著名な先生方が
意見を書いておられるというだけで、 夢見心地だった。
落ちているのだから当然けなしているのだが、
それでも誰かに見せびらかしたくて仕方がなかった。
特に土屋隆夫さんの、
「この作者の次の作品が楽しみである」
の一文には勇気づけられた。

その勢いで翌年一月末に三作目の『放課後』を応募した。
『魔球』よりも自信があったので、
最終候補に残るのはまず間違いないと思っていたが、
実際に連絡が来るまでは気が気でなかった。
残りましたという通知をもらった時には前年以上に嬉しかった。
そして七月二日の午後七時半頃、運命の電話が鳴った。
「おめでとうございます」
この台詞を耳にした時には、頭がくらっとした。
新しい世界への扉が開かれる音がはっきりと聞こえた。
事実、それからほんの少しの間はバラ色だった。
単行本の『放課後』は十万部も売れた。
週刊文春のベストテンで一位にも選ばれた
(当時は乱歩賞作品が一位になるのがふつうだったが、
そんな事情は知らなかった)。
しかしそんなことが長く続かないことは私にもわかっていた。
ここが勝負所だと思った。
それで会社を辞めて上京することを決心した。

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