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就職して一、二年は無我夢中だった。
当然のことながらエンジニアとしても半人前だから、
早く一人前にならねば、と焦っていた。
だがそんなふうに過ごしながらも、
一つの疑いが脳裏から離れなかった。
俺の居場所は本当にここなのか、というものだった。

たしかにエンジニアになることも夢の一つではあった。
だがそれならば、
子供の頃から何度も繰り返したあの「真似事」は何だったのだ。
それらに対して何ひとつチャレンジしないまま、
一生を終えていいのか。後悔はしないのか。
慣れない会社生活から逃避したくて
そんなふうに思うだけなのだ、と自分にいい聞かせていたが、
「もしほかの夢を追っていたらどうなっていたのだろう」という空想は、
日に日に私の心を掴んで離さなくなっていった。

二十四歳の秋、ついに一つの決心を固めた。
私の前には一冊の小説誌があった。
「小説現代」で、その号には江戸川乱歩賞決定の記事が載っていた。
岡嶋二人さんの『焦茶色のパステル』と
中津文彦さんの『黄金流砂』が受賞していたが、
新受賞者のことなどどうでもよかった。
私が知りたかったのは、募集要項だった。
いくつかの夢の中から小説家を選んだのには、
会社生活を続けながらチャレンジできる、ということが大きかった。
趣味で小説を書こうとはまるで思わなかった。
書くかぎりはプロを目指す気だった。
乱歩賞はプロ作家になるための
最短の近道といっても過言ではないことは、
素人の私にもわかっていた。

コクヨの原稿用紙にいきなり書き始めるという無謀なやり方で、
その夏から書き始めた。
率直にいうと、「絶対に乱歩賞を獲ってやる」
という意気込みはなかった。
とにかくチャレンジすることが大事だった。
何もしないで夢を諦めるようなことだけはしたくなかったのだ。
五年間、という期限を設けた。
それだけやってみてだめなら、
自分には才能がないとすっぱりと割り切り、
今度こそ優秀なエンジニアを目指そうと考えていた。
調べてみると応募作は毎年三百篇ほどあるようだ。
三百分の一――宝くじならかなり率がいいと思った。
もちろん確率の問題ではないことはわかっていたが。

翌年の一月末、書き上げた原稿を講談社に送った。
出来映えは納得できるものではなかった。
しかし書き終えたことがその時の私には大きかった。
到底受賞レベルにはないと自分でもわかっていたから、
応募した翌月からまた新たな小説を書き始めていた。
ただし前回の教訓を生かし、まずは下書きすることにした。
会社で不要になったコンピュータの出力用紙を持ち帰り、
その裏に細かい字でびっしりと書いていくのだ。
消すのも楽だし、鋏で切ってほかのところに貼り付けるということも可能だ。
このあたりワープロやパソコンと同じ感覚である。

残業で遅くなることがあっても、
必ず少しは書き進めるということを自らに課した。
当時私は独身寮に入っていたが、
「ヒガシノの姿を寮で見かけなくなった」
という噂が流れ始めた。
夢をかなえるためには 我慢しなければならないこともたくさんある。
私の場合、友人とのつきあいもその一つだった。
休みだからといって遊ぶ余裕はなかった。

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