『ダブル・ファンタジー』を超える衝撃の官能の世界

『花酔ひ』

恋ではない、 愛ではなおさらない もっと身勝手で、 もっと純粋な、何か

村山由佳

『放蕩記』に登場する母親は、異常なほどの厳しさと激情で、 娘を〈神〉のごとく支配する。実際の村山さんにとっても、 母の躾はほとんど宗教上の禁忌のように深く食いこんだ。

『放蕩記』を書き終えたことで、新しい気づきもたしかにありました。ようやく母のことを理解し、許せるようになりました—なんて答えることができたら、とても美しいし、わかりやすいんですけど、悲しいかな、そんなことは起こらなくて。ただ、自分でも意外だったのは、書き終えると、そこで切り離せるんですね。

 私にとって小説を書くというのは、ひと言では名づけられないものに、小説一冊分の枚数を費やして名前をつける作業なんです。人は、名前の無いものを理解することはできない。名前がついて初めて、自分の中のどの棚に片付ければよいかがわかる。解決まではしなくても、ひとまず理解可能なものとして距離を置くことができるようになるんです。私がそうやってコツコツ書いた小説が、読む人の心の整理を助けるものになるといいな、と思います。同じような悩みを持っていて、でもうまく片付けられずに苦しんでいた人が、自分の中のモヤモヤを終わらせるための手助けができたら、どんなにいいだろう、と。

 ちなみに、年明けに実家に帰ったとき、母にあれこれ言われても、前ほどカチンとも来なければショックも受けない自分にびっくりしました。「もう名前をつけ終えたし」というすっきり片付いた思いと、もうひとつは罪の意識ですね。母が娘の私にしたことは一対一の行為だったけれど、私は、母がもう読めないこと、つまり直接的には傷つけなくてすむのをいいことに、何万人という人に向けて小説という形で母のことを書いてしまった。私のほうがよっぽどひどいよね、という負い目があるぶん、もう、どうしたって母には優しくする以外にないんです。

 性に関することについては、今もって反射的に罪悪感を覚えます。幼い頃から潜在意識の奥底にプリントされてしまったものだから、もう如何ともしがたい。でも、今ではむしろ、この罪悪感やしんどさがあるからこそ、性愛や官能というものは、村山由佳という書き手にとって鉱脈になり得るのではないかと思っています。もし逆に、性愛が私にとってあっけらかんと楽しいものであったなら、そこから生まれる小説には、切実な痛みも、芳醇な悦びも、何も宿らないんじゃないかと思うので。

『花酔ひ』は、久しぶりに自分自身の抱えるものから完全に離れて、性の極致をまったくの虚構として描いてみようと挑戦した作品です。書きながら、「いくら何でもこんな場面まで書いていいの?」って、何度も自問自答しましたし、ぐったり疲れましたけれど、書き終えてみると、まだ書ける、もっと書けると思いますね。

 一方で、私の中にある「白ムラヤマ」の側面も、ちゃんと作品にしていきたい。以前書いていた作品とも一線を画した、足もとは泥の中に浸かりながら必死にひと筋の光を希求するような物語を、今なら書けるんじゃないかと思っています。

オール讀物2012年4月号表紙

このインタビューが掲載されている「オール讀物」

エロスの小宇宙! 短篇小説百花繚乱

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