エッセイ

楽しいゲームでした。みなさんに感謝!

ところが上京後に会った編集者は明らかに困惑していた。「あんないい会社、よく辞める決心がつきましたね。一言相談していただければ、アドバイスできることもあったのですが」新人賞を獲り、浮かれて会社を辞めて上京――おそらくそういう新人作家が多いのだろう。それを思いとどまらせるのも彼等の仕事なのかもしれない。

「大丈夫です」 私はいった。 「十分に計算した上でのことです」 「いや、そうはいっても筆一本で食べていくのはなかなか大変ですよ」 依然として不安そうな彼に私は次のような話をした。『放課後』は十万部売れた。しかしそれは乱歩賞受賞作だからであり、今後そんなに売れることはありえないだろう。妥当な数字はその十分の一だと考える。つまり一万部だ。一方会社を辞めることで執筆に専念できるから、年に三作は書くつもりである。千円の本なら印税が百円入る。要するに年間の印税収入は三百万ということになる。これは会社員時代の年収とほぼ同じである。以上の話を聞いた編集者は、そこまで考えておられるのなら大丈夫でしょうといって、ようやく笑ってくれた。どうやら彼は私の会社員時代の給料を過大評価していたようだ。

自分でいうのも変だが、この時のシュミレーションは、デビューしたての新米作家が立てたものにしては、じつに正確だった。実際、上京してからの数年間の収入は、この想定額を少し上回る程度にすぎなかった。そしてこのことに不満はなかった。この業界で生きていくことは、当初覚悟していた以上に厳しかった。

乱歩賞という看板の有効期限は驚くほど短かった。何しろ翌年の乱歩賞受賞パーティでは、担当編集者以外、殆ど誰も私の名前を覚えていなかったのだ。乱歩賞でさえそんな具合なのだから、他の新人賞となればもっと厳しい。毎年、多くの新人作家がデビューしてはいつの間にか消えていくという状況を目にするうち、作家として生活ができるだけでもありがたいと思うようになった。

そんな私にショックを与えたのが、近い世代の作家たちの台頭だった。後からデビューした作家が次々と文学賞を獲り、名前をあげていく。また新本格の旗印をあげた連中が、楽々と大量の読者を獲得していく。焦った時には遅かった。私の名前は読者にとっても評論家にとっても新鮮なものではなくなっていた。自分では力作を書いたつもりでも、はじめから注目されていないのだから、話題になりようがない。『天空の蜂』という作品を三年がかりで書いた時には、ペンネームを変えることさえ本気で考えた。

思えば作家になって一番辛い時期だったかもしれない。辞めたいとは思わなかったが、どうしていいかわからなくなったのは事実だ。そんな私を支えてくれたのは何人かの編集者だった。彼等に励まされるたびに、誰も自分のことを見ていないわけではないのだと勇気づけられた。もちろん甘いことばかりをいわれたのではない。彼等は私にレベルの高い作品を求めた。その要求に妥協はなかった。一方で彼等は私にすべてをゆだねてくれた。「自分が面白いと思うものを書いてください」といってくれた。ある女性編集者は、ファンタジー小説を書きたいという私の要求に快くオーケーしてくれた。事故で娘の肉体に母親の魂が宿るという荒唐無稽なストーリーはいくつかの社では拒絶されたアイデアだった。またある男性編集者は、男女二人の犯罪を描きつつ、その内面は全く描写せず、しかも二人が絡むシーンは皆無という、話を聞いただけでは全体像をイメージできない小説の執筆にゴーサインを出してくれた。

押し続けていれば壁はいつか動く――そう信じて書き続けた。

『秘密』で日本推理作家協会賞を受賞したのは一九九九年の夏だ。デビューからじつに十四年が経っていた。祝いに駆けつけてくれた編集者の数に驚嘆した。誰からも注目されていない、というのはとんだ間違いだった。それどころか、道を踏み外さないよう多くの人々から見守られてきたのだと痛感した。

小説を書くのは孤独な作業だ。しかしそれが一冊の本となって読者の手元に届くには、驚くほど多くの人々の力が必要となる。その本によってもたらされる喜びや悔しさを彼等と共有できるなら、この仕事はもっとやりがいのあるものとなる。改めてそう思った。直木賞で落選を繰り返している間も、失望よりも楽しさのほうが大きかった。そもそも二十年前に上京した時には、自分がこの賞に絡むなどということは夢想さえもしなかったのだ。もちろん候補になれば期待する。だめだったとなれば落胆する。だがその落胆を共有できる仲間たちがいる。彼等の表情が見せかけでないとわかっているから、やけ酒だって旨いのだ。受賞すれば大事件。しかし落選したからといって失うものは何もない。リスクはないのに刺激的なゲーム――直木賞というのは私にとってそういうものだった。参加できるだけでも幸運なのだ。楽しまない手はない。

今回は六回目の候補だったが、私は要請があるかぎり、何度でも受けるつもりだった。十回も二十回も候補になった挙げ句、結局獲れずに終わる、ということも覚悟していた。その可能性だって低くないと思っていた。何しろ天下の直木賞だ。大道芸で売ってきた自分に転がり込んでくるとは、どうしても思えなかった。しかし辞退することなど露ほども考えたことがない。ゲームというのは結果ではなく経過を楽しむものなのだ。毎日新聞に、今回受賞できなかったら次からは辞退するつもりだったと私がいったと掲載されたが、芥川賞の絲山秋子さんと混同している。

そのかわり賞を狙って書くことも絶対にしないつもりだった。それが応援してくれる読者や編集者たちへの礼儀だと思った。もっとも周りの人間たちはかなり深刻になっていたようだ。受賞後に姉のところに電話をしたら、ニュースですでに知っていた彼女は泣いていた。さらに、いかに今まで悔しい思いをしてきたかを切々と語るのだった。昔からの友人知人も続々と連絡をくれた。彼等がこれまで私が候補にあがるたびいかに気をもみ、落選を知っては落胆するということを繰り返してきたのかを私は初めて知った。無関心を装っていたのは、私にプレッシャーを与えたくないという配慮からだったのだ。ゲームだなんだと呑気なことをいっていられたのも、やはり皆に支えられ、見守られ続けてきたからだった。

つい先日、八十八歳になる父から封筒が送られてきた。中には数枚の写真が入っていた。それは横浜にある直木三十五の墓を写したものだった。デジカメに凝っている父は、直木の墓が近くにあることを知り、撮影しに出かけたのだろう。何のコメントも同封されていなかったのが、職人の父らしいと思った。

<< 前へ「オール讀物」2006年3月号より