エッセイ

楽しいゲームでした。みなさんに感謝!

コクヨの原稿用紙にいきなり書き始めるという無謀なやり方で、その夏から書き始めた。率直にいうと、「絶対に乱歩賞を獲ってやる」という意気込みはなかった。とにかくチャレンジすることが大事だった。何もしないで夢を諦めるようなことだけはしたくなかったのだ。五年間、という期限を設けた。それだけやってみてだめなら、自分には才能がないとすっぱりと割り切り、今度こそ優秀なエンジニアを目指そうと考えていた。調べてみると応募作は毎年三百篇ほどあるようだ。三百分の一――宝くじならかなり率がいいと思った。もちろん確率の問題ではないことはわかっていたが。

翌年の一月末、書き上げた原稿を講談社に送った。出来映えは納得できるものではなかった。しかし書き終えたことがその時の私には大きかった。到底受賞レベルにはないと自分でもわかっていたから、応募した翌月からまた新たな小説を書き始めていた。ただし前回の教訓を生かし、まずは下書きすることにした。会社で不要になったコンピュータの出力用紙を持ち帰り、その裏に細かい字でびっしりと書いていくのだ。消すのも楽だし、鋏で切ってほかのところに貼り付けるということも可能だ。このあたりワープロやパソコンと同じ感覚である。

残業で遅くなることがあっても、必ず少しは書き進めるということを自らに課した。当時私は独身寮に入っていたが、「ヒガシノの姿を寮で見かけなくなった」という噂が流れ始めた。夢をかなえるためには我慢しなければならないこともたくさんある。私の場合、友人とのつきあいもその一つだった。休みだからといって遊ぶ余裕はなかった。

やがてこの年の新たな乱歩賞受賞者が誕生した。早速、「小説現代」を買ってみた。受賞作は高橋克彦さんの『写楽殺人事件』だった。優れた作品らしい。だがそれよりも私が注視したのは選考経過だった。高橋さんのすぐ隣に私の名前と作品名が印刷されていた。しかも二次選考通過を示す太字になっていた。最終候補まで、あと一歩だったのだ。やれるかもしれない――初めてそういう気になった。その瞬間、小説を書くことが私にとって本当のチャレンジとなった。それまでは気休めに過ぎなかったのだ。

執筆中の第二作を徹底的に推敲し、書き直した。応募したのはまたしても締切直前だった。後悔しないよう、ぎりぎりまで粘ったのだ。作品に自信はあった。しかし一ヵ月後には次の作品にとりかかっていた。落選が決まってから執筆を始めていたのでは次回の応募に間に合わない、というのもあった。だがそれ以上に、仮に受賞した場合にでも、次の作品を用意しておいたほうがいいという計算があったのだ。私にとって乱歩賞はゴールではなかった。運良く受賞したとしてもスタートラインに立てるだけのことだ。無論それが大変重要なことではあるのだが、その後新作を出すのに手間取っていれば、すぐに読者から忘れ去られるということもわかっていた。読者は忘れっぽく冷淡だ。そのことは乱歩賞ファンである自分が一番よく知っていた。会社勤めをしながらでも、一年に一作程度書き上げられなければ、到底プロとしてはやっていけないだろう――そう考えたわけだ。

その年の五月に、応募二作目の『魔球』が最終候補に残ったという知らせが届いた。舞い上がったのはいうまでもない。必要書類を講談社に送り返す時には、封筒に手を合わせたりもした。だが受賞を願う気持ちのどこかに、「いや今回はそんなことは考えないほうがいい」という思いがあったのも事実だった。これには二つの意味がある。一つは、「どうせ受賞は無理だろうから、そんなことに心を奪われている暇があれば、現在執筆中の作品を少しでもよくすることを考えるべきだ」という自分への戒めだ。これについては説明不要だろう。問題はもう一つの意味だ。信じてもらえないかもしれないが、「今回は受賞しないほうがいいかもしれない」と考えていたのである。

じつに奇妙な話である。受賞を目指していながらも、それを恐れる気持ちがあった。なぜなら当時の私には、作家としてやっていく自信がまだなかったからだ。たった一作、たまたま評価されたからといって、今後も同じかもしくはそれ以上のレベルを維持できるとはかぎらないのだ。自分でも、「やっていける」と自信が持てた時に受賞するのが理想的だと思った。ずいぶんと贅沢なことを考えていたものである。受賞もしないうちから、乱歩賞の看板の重さをプレッシャーに感じていた。そのくせ、一ヵ月後に実際に落選した時には、やっぱりそれなりに落胆したのだから、世話はない。

その時の選評を、例によって「小説現代」で読むことになったのだが、自分の書いた小説について著名な先生方が意見を書いておられるというだけで、夢見心地だった。落ちているのだから当然けなしているのだが、それでも誰かに見せびらかしたくて仕方がなかった。特に土屋隆夫さんの、「この作者の次の作品が楽しみである」の一文には勇気づけられた。

その勢いで翌年一月末に三作目の『放課後』を応募した。『魔球』よりも自信があったので、最終候補に残るのはまず間違いないと思っていたが、実際に連絡が来るまでは気が気でなかった。残りましたという通知をもらった時には前年以上に嬉しかった。そして七月二日の午後七時半頃、運命の電話が鳴った。 「おめでとうございます」 この台詞を耳にした時には、頭がくらっとした。新しい世界への扉が開かれる音がはっきりと聞こえた。事実、それからほんの少しの間はバラ色だった。単行本の『放課後』は十万部も売れた。週刊文春のベストテンで一位にも選ばれた(当時は乱歩賞作品が一位になるのがふつうだったが、そんな事情は知らなかった)。しかしそんなことが長く続かないことは私にもわかっていた。ここが勝負所だと思った。それで会社を辞めて上京することを決心した。

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