立ち読み

『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』 上間 陽子(太田出版刊)

まえがき──沖縄に帰る

 一〇年近く前、私は大学の教員の仕事を得て、生まれ育った沖縄に帰ってきた。

 就職したのは教員を養成する学部だったが、大学の仕事の一方で、私的な、あるいは公的なスーパーバイザーの仕事として、暴力の被害者である未成年の子どもたちに関する相談を請けおうようになった。

 ある日、学校やNPO団体などから「おりいってご相談したいことがあります」と、連絡が入る。――親から暴言を吐かれて家にいられない子どもがいるが、児童相談所に、その程度で保護はできないと断わられたがどうしたらいいか。援助交際をしているという噂があるが、本人にどう尋ねたらいいか。生徒がレイプされたらしいのだが、どう対応したらいいか。きょうだいがみんなそろって不登校で、姉にあたる子がきょうだいの面倒を見ていることがわかったが、どうしたらいいか。

 虐待、少女買春、強姦、ネグレクトゆえの不登校などの相談がひとつ入ると、矢継ぎ早にやらなくてはならないことが出てくる。残しておくべき証拠の確認、児童相談所や医療機関の紹介、何よりもその子どもとどう話すか、保護者とどう話すかを相談し、今日から明日にかけての近い見通しと、半年くらい先までの遠い見通しを立てる。

 起きたことがらによって、行うべき取り組みは異なる。それでも、暴力を受けるという意味を理解することは、それから長く続く支援の入り口にあって必要不可欠なことだった。

 私たちは生まれたときから、身体を清潔にされ、なでられ、いたわられることで成長する。だから身体は、そのひとの存在が祝福された記憶をとどめている。その身体が、おさえつけられ、なぐられ、懇願しても泣き叫んでもそれがやまぬ状況、それが、暴力が行使されるときだ。そのため暴力を受けるということは、そのひとが自分を大切に思う気持ちを徹底的に破壊してしまう。

 それでも多くのひとは、膝ががくがくと震えるような気持ちでそこから逃げ出したひとの気持ちがわからない。そして、そこからはじまる自分を否定する日々がわからない。だからこそ私たちは、暴力を受けたひとのそばに立たなくてはならない。そうでなければ、支援は続けられない。


 被害を受けている子どもの多くは、困窮し孤立した家族のなかで育っている。

 生活が困窮するということは、ひとなみの日常を送るのが著しく困難になるということだ。そのためそこで暮らすひとびとの自尊心は、傷つきやすい状態に置かれてしまう。そこではほんの些細な出来事で暴力が発動する。暴力はさまざまなものに姿を変えるが、弱いものの身体に照準を合わせて姿をあらわす。暴力は循環し、世代を超えて連鎖する。

 ひとつの事実を知ることは、薄皮を剥くようにあらわれる別の事実を知ることでもある。その家族の内部では、強いものが弱いものに暴力をふるっていた。暴力をふるわれたものは、自分より弱いものに暴力をふるっていた。子どもたちは、逃げられる年齢になったらそこから逃げていた。逃げられないものは、そこにとどまっていた。

 数々の暴力が明らかにされる過程で、相談をもちかけてきたほかならぬそのひとがうちのめされるときがある。子どもを助けたいと思っていたはずのそのひとの口から、この子は変わらない、この家族は怠惰だ、事態が難しいなどの言葉が発せられる。そのときに、暴力を受けるということがもたらすものについて、もう一度話し合う。破壊されているのは、いま、そこにある身体だけではないこと、これまで大事にされた記憶や自分のことを大事だと思う気持ちが壊されていること、投げやりな言動の背後には、深い孤独感や無念さがあることを話し合う。

 そのように読み解けたとき、そのひとはふたたび子どものそばに踏みとどまろうとする。簡単なことではない。それでもだれかがやらないといけないことだと、腹をくくって。

 でも、そんなひとはどれくらいいるのだろうか?


 子どもと毎日一緒に過ごしているはずの、日本の教師の働く時間は、OECD諸国のなかで最長となっている。さらに全国学力・学習状況調査の影響もあって、学校現場は管理統制を強めている。沖縄の子どもたちの相対的貧困率は、およそ三割との発表がなされているが、教師には、子どもとその生活について語り合う時間がない。いや、それは正確ではないだろう。子どもと語り合うことがなくても、教師のルーティンはまわる。だから多くの教師は、子どもたちにその生活を尋ねない。

 相談をもちこむひとは、禍々しい暴力の実態にうちのめされながらも、子どもの話を聞き続ける力があった。それが示すもうひとつの事実は、子どもに尋ねることができないひとのもとでは、子どもの現実は明らかにされないということだ。

 だから私は相談を受けるたびに、表には出ていない、隠された存在の子どもたちがいると思い続けてきた。だれにも話を聞いてもらえずに、ひとりで夜をやりすごしている子どもたちが、まだどこかに存在している。

 実際に、沖縄では子どもが巻き込まれた事件がいくつも報道されている。集団レイプ事件、監禁されそうになった少女、集団暴行事件、少女買春事件、新聞にはそうした記事がならんでいる。

          *

 沖縄で、風俗業界で仕事をする女性たちの調査をはじめようと思ったのは二〇一一年だった。

 沖縄の風俗業界には、未成年のときから働き出した女性たちがいると伝え聞いていた。年若くして夜の街に押し出された彼女たちがどのような家族のもとで育ち、どのように生活をしているかがわかれば、暴力の被害者になってしまう子どもたちの生活について話し、それを支援する方法について考えることができるのではないだろうか。

 風俗業界に出入りする調査は、打越正行さんとでなければできないと思った。沖縄の暴走族の若者をほぼ網羅し、かれらと一緒に、沖縄の主要道路五八号線を走る打越さんの調査はすさまじかった。そうした調査を可能にしているのは、だれとでもくつろいだ顔をして時間を過ごすことのできる、フィールドワーカーとしての稀有な才能があるからだと私は思い続けてきた。

 ちょうど同じころ、打越さんからも声をかけてもらって、二〇一二年の春にファンド(日本学術振興会若手研究B「沖縄地方のリスク層の若者の移行状況に関する聞き取り調査」二〇一二年‐二〇一三年、のちに基盤研究C「沖縄における貧困と教育の総合的調査研究」二〇一四年‐二〇一六年)を得ることが決まった。

 二〇一二年の夏、私たちは調査を開始した。

 話を聞かせてもらったのは一〇代から二〇代のキャバクラや風俗店で働いている女性たちで、子どもをもっているひとがほとんどだった。彼女たちは一〇代で子どもを産み、パートナーと別れたあと、ひとりで子どもを育てるために夜の業界で仕事をしていた。

 そうやって夜の街を歩くようになってから、私は昔の出来事を思い出すようになった。最初は友だちの手のひらを思い出した。その次は隣でさらさらと揺れていた髪の毛を思い出した。どれも中学生のころ、私の近くにあったものだ。

 話を聞いた女性たちはみんな、私の中学時代の友だちの面影を宿していた。

          *

 私は、米軍基地のフェンスに囲まれた、大きな繁華街のある街で大きくなった。

 私が通っていた中学校は当時荒れている中学校のひとつで、教師の自宅の外壁がスプレーで落書きされたり、教師の車がひっくり返されたり、近くの公園では暴行事件が起きたりしていた。

 荒れている中学校だったからか、これ以上荒れさせるわけにはいかないと教師たちが考えたからか、小さな校則違反もすべて取り締まりの対象になっていて、靴下の色がちがう、髪の毛の長さがちがう、スカート丈がちがうといって、教師たちはよく身なりの指導をした。私たちのグループの短いスカートと先輩直伝のネクタイの結び方は、教師たちから徹底的にマークされていた。私たちは教師に何度もなぐられたが、なぐられることで前よりも結束が固くなった。そうやって私たちは仲良くなった。

 でも学校のなかだけで過ごすたわいのない時間は、そんなに長く続かなかったようにも思う。

 冬休みになったころ、グループのリーダーだった加奈と、自分の家が大嫌いな早苗が家出をする騒ぎが起こった。

 家出の前日に早苗から連絡があって、「お父さんから電話があっても、どこに行ったか知らないっていって」と釘をさされた。早苗の父親は、子どもを拳でなぐるひとだった。

 家出した翌日の午後、ふたりは私の家に連れ立ってやってきた。

 自分の部屋にふたりをまねきいれて、わくわくしながら昨日の夜のことを尋ねる。早苗はうわずった声で、暴走族を見るために繁華街に出かけたこと、そこで数人の年上の男性にナンパされて、そのひとりから連絡先をもらったと話した。加奈のほうは青ざめて、しんと静まりかえっていた。

 しばらくたってから、身体がベトベトすると加奈がいった。そして、いま考えているのは、とにかくお風呂に入りたいっていうことといった。いいよと返事をし、お風呂を沸かしバスタオルを用意してから、どっちから入る? と聞いたら、早苗からと加奈がいった。加奈のほうがお風呂に入りたがっていたのにと思いながら、早苗をお風呂に案内した。加奈とふたりきりになってから、なにか飲む? と尋ねると、加奈は「ココア」といった。

 小さなキッチンに移動して、加奈を椅子に座らせてココアをつくった。私はココアを上手にいれることができる。小さな鍋をとろ火にかけて、ココアを練ってミルクでのばすと、とっても美味しいココアになる。

 マグカップにたっぷりココアをそそいで、砂糖をいれて、刻んだマシュマロを浮かべて出した。

 加奈は両手でカップを包みこむようにして、ゆっくりココアを飲んだ。

 それから真夜中の出来事を話しはじめた。――昨日、知らない男たちに声をかけられてその車に乗せられたこと、そして早苗が、そのなかのひとりとセックスをしたこと、自分も別の男に誘われたけれどなんとかそれを断わって車の外にいたこと、早苗と知らない男が乗った車をずっと外で見ていたこと、そしていまは、早苗のことを気持ち悪いと思っていること。

 加奈の声は途切れがちだった。私も黙っていた。どう答えていいのかまったくわからなかったからだ。

 話し終わってぼんやりしている加奈に、疲れていると思うから、今日は自分のおうちでご飯を食べて、ゆっくり自分の部屋で眠ったほうがいいよといった。うちのお母さんに電話をかけてもらって、おうちのひとに迎えに来てもらおうよ。

 私がそう話すと、加奈は困ったような顔になった。

 早苗がお風呂からあがり、入れ違いで加奈がお風呂に入った。早苗はキッチンにやってくると小声で、「もう、おうちに帰りたい」といった。

 私は、ふたりの家に電話をかけてほしいと母親にお願いした。

 早苗の父親はすぐに迎えに来た。庭先で大人ふたりが話をして、いつの間にか早苗の父親が加奈を家まで送っていくことが決まっていた。

 早苗は助手席に、加奈は車の後部座席に乗り込んだ。車を見送ると、外はもう真っ暗になっていた。

 ふたりが帰ってから、私は、どうして加奈の家のひとは迎えに来なかったのか母親に尋ねた。加奈の家に電話をかけた母親は、「おうちのひとは、加奈がいないことに気がついていなかったよ」といった。そして、「迎えに来てほしいとお願いしたら、ひとりで帰してくださいといわれた」と話した。一晩中、加奈がいないのに気がつかないってどういうこと、外はもう真っ暗なのに迎えに来ないってなんでなのと私が怒ると、「いろんなおうちがあるよ」といわれた。それから、あなたが知らないような暮らし、あなたが知らないことがいっぱいあると母親は続けた。教員をしていた母親は、クラスの子どもの家に足繁く通い、長い休みのときには、食べ物をもって子どもたちの家を訪ねるひとだった。

 でも私は「いろんなおうち」のことなど、知りたいとは思わなかった。あんなにくたくたに疲れ果てて、一晩中歩き通して、知らない男の車に乗せられて、その車でセックスをさせられるなんてまっぴらだ。揺れる車を眺めながら、次は自分の番かもしれないと思っていた加奈はかわいそうだ。

          *

 早苗は、車でセックスをした相手とあれから二回会ったけど、すぐに連絡がとれなくなったといった。

 加奈は初めてシンナーを吸ったあと、やっぱり私の家にやってきて、その日のことを私に話した。一緒にシンナーを吸った先輩が、「お母さん、お母さん」って泣いたんだよ。ずっとずっと、泣いていた。

 それまではかっこいいと思っていた先輩も、ずっと憧れていた加奈も、ただただかっこ悪かった。

 そのときは幻滅しただけだった。だけどこれを書いているいま、あのとき、加奈も泣いていたのかもしれないと私は思っている。この出来事からしばらくあとに、加奈は母親を亡くして私たちの前から姿を消した。


 それからもいろんなことがあった。

 女の子たちの疲れた顔を見ることに、私は次第にうんざりするようになっていた。彼女たちの家の話をひとつひとつ知るたびに、私のなかにある、明るく光るものが壊れていくような気がしていた。

 私たちの街は、暴力を孕んでいる。そしてそれは、女の子たちにふりそそぐ。


 中学三年生になる直前、私は地元を離れようと思った。できるだけ遠くに行くこと、煙草やシンナーの匂いから遠く離れること。親が公務員や教員をしている子たちは、地元から遠く離れた進学校に行く。そうやって移動して、知らないひとたちのなかで新しい生活をつくっていくことはそんなに悪いことではない。疲れ果てた女の子たちの顔を見るのはもうたくさんだ。

 私はひとりで塾を探して、そこに通った。一年間必死に勉強して、第一志望だった高校に合格した。そして一五歳のときに、地元を捨てた。

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