著者インタビュー 『月と蟹』の舞台を歩く

道尾秀介


一作ごと新たな試みに挑み軽々と超えてみせる俊英の最新長篇『月と蟹』。執筆にあたり初めて取材旅行をしたという道尾さんとともに舞台となる鎌倉を再訪。古寺や海辺を歩きつつ、創作について伺った。

鶴岡八幡宮

捨てる自信がついたから舞も見ることができた

本殿から下る道尾さん。鎌倉まつりの際にはこの階段を観客が埋め尽くす賑わいに。

朱が目に鮮やかな、鶴岡八幡宮の舞殿。「静の舞」はここで披露される。

道尾 実は小説を書く前にどこかへ取材に行くというのは『月と蟹』が初めて。今まではむしろ見ないようにしていて、たとえば病院のシーンを書く時は病院に近づかないようにしていたくらいです。自分が見ているのに読者は見ていないという状態だとやっぱり齟齬(そご)が出るんじゃないかと思って。でも、段々と器用になってきてきちんと取捨選択ができる自信がついたから今回は取材旅行をしてみました。

やがて舞台の奥から静御前が現れた。(中略)静の舞は、とても哀しげで、寂しげだった。静御前がうつむくと、その白い頬には涙さえ見えるようだった。(第一章 49ページより)

道尾 僕が見た静の舞は、舞い手が男性だったんです。だからビデオカメラでズームにしてしまったりすると「美人」でもなんでもない。書き慣れてない頃だったら「男だった」ってそのまま書いてしまったかもしれないけど、今はそんなの平気で「服装と仕草のせいで、驚くほどの美人に見え」たとか「哀しげ」だとかフィクションを持ち込める。捨てる腕というか、あくまで自分を通じて出てきたものを書くという、いわゆる作家力がついてきたんだなと思います。

――事実を見たまま書くのではなく。

道尾 伝えたいことをよりダイレクトに読者に伝えるためには、海がこんな色で船が何艘浮かんでいてその背後の山はどんな形でっていちいち書いても仕方がない。情報を一瞬で伝達できる「映像」に「活字」がかなうわけはないんだから、それよりも相手の頭に直接絵をぶつけるような言葉を選べるかどうか。印象派の絵なんて単純な線で削ぎ落として描いているのに写真よりリアルでしょう、あれが理想です。
 僕は小説にしかできないことをやりたい、とよく言うんですが『月と蟹』にはその要素が特に濃いと思います。ラスト近くで慎一が見ているヤドカミ様の描写は、どんな映像技術を駆使しても不可能です。

鎌倉駅

駅でのラストはただ「今」だけを書きたかった

JRの近代的で大きな駅舎とは対照的にこぢんまりと可愛らしい江ノ電乗り場。作中の町は架空だが、こんな雰囲気だったのかも。

――ヤドカミ様の描写、そして駅から慎一と母が電車に乗って去ってゆくラストシーンの余韻、このふたつは『月と蟹』を語る上で大きなカギになっていますね。

道尾 一人称でずっと主観を書くやり方だと、読者の目にも最初から慎一と同じヤドカミ様が見えている状態。でも『月と蟹』は三人称小説で、慎一が自分のつくった物語に段々と取り込まれていく様子が読者には見える。その上で最後の何十枚かの、慎一にとってのヤドカミ様が本当に出現してしまった状態を三人称でどう書くかは難しかった。見えないものをスケッチするというのはこれまで一回もやったことがなかったし、しかも書き損じたら全体が崩壊するという難所。プロットの頃の編集者とのメールのやり取りを見返してみたら「今回はいつになく難しいことをやろうとしています。失敗したらごめんなさい」って書いてるんですよ。ただ自分でもよくこんなこと書くなと思うんだけど「でも、大丈夫だと思います」とも書いてある(笑)。うまくいって良かった。
 ラストについてはあそこで「そしてその後慎一は」ってやると、最初の一行から最後まで慎一の視点を守って一度もぶれさせずにきたのが台無しになってしまう。慎一にとってのラストシーンはただ泣き続けるしかないんです。明日どうなるとか、新しい学校に行くのかとか、そんなことは一切考えずにただ泣く、それだけで小説としては完結しているので、その先は読む人それぞれによって違うと思います。

――読者に委(ゆだ)ねるというのは、勇気もいるのでは。

道尾 誤解される可能性もそれだけ高くなりますよね。でも、みんなが聴いてみんなが良い曲だって言うポップスを作りたいわけではないから。魚でも、骨まで食える魚じゃ駄目。食べ終わってお茶を飲んでるときもどっかに小骨が引っかかっているような、小説はそうじゃないと駄目だと僕は思っているので。そこはこれからも変えないでしょうね。

――これから読む方のために引用は控えますが、“小骨”の残る忘れがたいラストシーンだと思います。

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