『その日のまえに』や『きみ去りしのち』など、死にゆく者、遺された者の物語を描いてきた重松さん。
『悼む人』、『静人日記』など、悼みという行為を通じて、生と死の意味を問うてきた天童さん。
二人の作家が、静かに語り合った――。
天童
死にゆく人の忘れないで、という気持ちはすごくよく分かります。自分が生きていたことの証を求めたい感覚もありますしね。でもそれはときに遺される者にとって残酷になりかねないというか、口にしてしまうのは、去る側の、求め過ぎのような気がします。死に際してはたぶん求めるより与えるほうが、大切なものをより深く残していくのじゃないか……。『その日のまえに』で亡くなった妻・和美さんが残した「忘れてもいいよ――」という言葉は、去りゆく人からの大きいプレゼントじゃないでしょうか。
重松
おそらく忘れないんですけどね。人の生き死にだけじゃなくたって、たとえば一人の男がある女性と結婚するときに、これまで愛してきた女性の記憶が完全に消去されているわけじゃないですよね。いろんな思いがあって、それでも、もう十分に一人の女性を愛するに値するくらいに薄まっている。だから、薄まるということは大事かもしれないんです。
ただ、かつてあった原液が薄まってくことへの後悔って、絶対にあると思うんです。折り合いをつけていくなかで、原液の純なるものを捨て去ることへの後ろめたさや寂しさをみんな持っている。
思えば僕は、静人と出会う前の人たちの物語をずっと書いている感じがするんですよ。静人と会えない人々を書いていて思うのは、彼と出会ってしまうと、すごくキツくて、すごく迷惑だけど、でも本質的なところで救われるんでしょうね。
天童
重松さん、実のところ、自分をゆるしてない人って好きでしょう。
重松
そうかもしれません。
天童
ゆるしてない人が、ゆるす方向へ進むところの感情のダイナミズムが重松さんの作品の醍醐味の一つだと思うけれど、いわばそれは死にとらわれているところから、生きることへ重心が移ってゆくときのダイナミズムとも重なる。そしてこうした両極の途上の「揺れ」にこそ表現すべきドラマはあるし、いずれは死に落ち着く人間の、生きてゆく上での妙味でもあるのかなと思うんです。
重松
歩きだす瞬間を描きたいのかな、僕は。でも、『悼む人』も新たな生命の誕生で終わり、『静人日記』も歩き出すところで終わる。終わりは始まりであり、静人の旅はまだ途上です。
天童
重松さん自身も、途上ですか?
重松
きっとそうです。死んでしまった人たちを忘れながら生きていく旅の途上です。だからこそ、静人に会いたいんですよ、僕はずっと。