前のページへ『楽しいゲームでした。みなさんに感謝!』

『秘密』で日本推理作家協会賞を受賞したのは一九九九年の夏だ。
デビューからじつに十四年が経っていた。
祝いに駆けつけてくれた編集者の数に驚嘆した。
誰からも注目されていない、というのはとんだ間違いだった。
それどころか、道を踏み外さないよう
多くの人々から見守られてきたのだと痛感した。

小説を書くのは孤独な作業だ。
しかしそれが一冊の本となって読者の手元に届くには、
驚くほど多くの人々の力が必要となる。
その本によってもたらされる喜びや悔しさを彼等と共有できるなら、
この仕事はもっとやりがいのあるものとなる。
改めてそう思った。
直木賞で落選を繰り返している間も、
失望よりも楽しさのほうが大きかった。
そもそも二十年前に上京した時には、
自分がこの賞に絡むなどということは夢想さえもしなかったのだ。
もちろん候補になれば期待する。
だめだったとなれば落胆する。
だがその落胆を共有できる仲間たちがいる。
彼等の表情が見せかけでないとわかっているから、
やけ酒だって旨いのだ。
受賞すれば大事件。
しかし落選したからといって失うものは何もない。
リスクはないのに刺激的なゲーム――
直木賞というのは私にとってそういうものだった。
参加できるだけでも幸運なのだ。
楽しまない手はない。

今回は六回目の候補だったが、
私は要請があるかぎり、何度でも受けるつもりだった。
十回も二十回も候補になった挙げ句、
結局獲れずに終わる、ということも覚悟していた。
その可能性だって低くないと思っていた。
何しろ天下の直木賞だ。
大道芸で売ってきた自分に転がり込んでくるとは、
どうしても思えなかった。
しかし辞退することなど露ほども考えたことがない。
ゲームというのは結果ではなく経過を楽しむものなのだ。
毎日新聞に、
今回受賞できなかったら次からは辞退するつもりだった
と私がいったと掲載されたが、
芥川賞の絲山秋子さんと混同している。

そのかわり賞を狙って書くことも絶対にしないつもりだった。
それが応援してくれる読者や編集者たちへの礼儀だと思った。
もっとも周りの人間たちはかなり深刻になっていたようだ。
受賞後に姉のところに電話をしたら、
ニュースですでに知っていた彼女は泣いていた。
さらに、いかに今まで悔しい思いをしてきたかを切々と語るのだった。
昔からの友人知人も続々と連絡をくれた。
彼等がこれまで私が候補にあがるたびいかに気をもみ、
落選を知っては落胆するということを繰り返してきたのかを
私は初めて知った。
無関心を装っていたのは、
私にプレッシャーを与えたくないという配慮からだったのだ。
ゲームだなんだと呑気なことをいっていられたのも、
やはり皆に支えられ、見守られ続けてきたからだった。

つい先日、八十八歳になる父から封筒が送られてきた。
中には数枚の写真が入っていた。
それは横浜にある直木三十五の墓を写したものだった。
デジカメに凝っている父は、直木の墓が近くにあることを知り、
撮影しに出かけたのだろう。
何のコメントも同封されていなかったのが、職人の父らしいと思った。

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たぶん最後の御挨拶

たぶん最後の御挨拶』  Ⅶ.作家の日々より


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