第6回 不眠 NEW! 6.27更新

漫画家のつげ義春氏は以前、息子さんが誤って崖から転落し、気も狂わんばかりに取り乱す、などという悲惨な妄想を毎晩のように繰り返し、結果不眠に悩まされた時期があったという(著書『貧困旅行記』に詳しい)。僕を含め、不眠を抱えている人間は、どうもそういう傾向があるらしい。自分の場合は、布団の中で、この先起こりうる様々なトラブルへの対処法をシミュレーションし始めると、もう止まらなくなる。
たとえば、翌日打ち合わせがある場合。万一交通機関が不通になったり、電車内で痴漢の濡れ衣(ぎぬ)を着せられる、といった理由で、約束の場所に時間通りに到着できなかった際の言い訳を考えるのに数時間を費やす。打ち合わせ場所が自宅から遠く離れている場合には、出先で災害に見舞われた際の帰宅方法の吟味(ぎんみ)も欠かせない。さらには、打ち合わせで話がまとまり、「祝杯を挙げに食事にでも」と誘われた際、焼き鳥と鍋物系の店を、いかに先方が不快にならないように避けるか(「尖端恐怖」および「黴菌(ばいきん)恐怖」の回参照)にも大いに悩まされる。その他にも、帰りの電車でおかしな人に絡まれるというシチュエーションへの適切な処置や、帰宅時間が遅いと妻になじられた際の弁明の考案なども加わり、こうなってくると眠るどころの騒ぎではない。だったら寝ないで出かければいいものを、朝方に猛烈な睡魔に襲われそこから熟睡、結果寝坊して打ち合わせはすっぽかし、などという事態も少なからずあった。さすがにそれではまずいと数年前から睡眠薬を常用しているのだが、戦争が勃発(ぼっぱつ)し、睡眠薬が配給制になるという事態が起こらないとも限らない。そんなことを妄想し始めてからは、ケミカルの効きも鈍ってきたように思える。
なんとか上手いこと眠りにつくことはできないかといろいろ調べてみると、トリプトファンという必須アミノ酸を意識的に摂るのが効果的、という説にたどり着いた。トリプトファンは体内に取り込まれると、眠りを誘うセロトニンという脳内ホルモンに変化するというのだ。そんなトリプトファン、赤身の魚などに多く含まれているらしい。赤身…? 魚…?
そういうわけで、今後私に食事をご馳走してくださる人がいるならば、カツオやマグロなど、赤身の魚を美味しくいただける鮨で、是非。
第5回 縁起恐怖 6.20更新

ボストン・レッドソックスの松坂大輔投手は、ベンチからマウンドに向かう際、ファールラインを決して踏まずに跨(また)ぐ。スポーツ選手によく見られるゲン担ぎだろうが、神経症の僕としては、これがエスカレートしないかと不安で仕方がない。
たとえば彼が、たまたま左足でラインを跨いでしまった試合で、打ち込まれ負けてしまったとする。それ以来「右足でラインを跨がなければ勝てない」と思い込み始め、何より優先して“右跨ぎ”を遂行(すいこう)し、左足でラインを越えそうになった時には再びベンチに戻り、もう一度最初からマウンド入りのやり直し、などということになってしまわぬものか、と強い懸念を感じてしまうのだ。そうなるともう投球どころではなく、試合自体が立ち行かなくなってしまうだろう。
かように考えてしまうのも、僕に、「ある特定の行為を行わないと、病気や悪い事柄が起きるという強迫観念にさいなまれる」という縁起恐怖の気があるためだ。人によっては、生活破綻(はたん)にまで発展するらしいのだが、僕の場合、そこまでは進行していない。が、まあちょっと困ったことは起きたりする。
子どもの頃、霊柩車(れいきゅうしゃ)と遭遇した際に、「親の死に目に会えない」と、親指を隠した経験がある方は多いと思うが、僕の場合は現在進行形で、最近は事故現場や古戦場といった霊の存在を感じられる場所はもちろん、他人と目が合ったなどという、自分にとって好ましくない事態(視線恐怖症ですから)が発生した場合にも、反射的に親指を隠してしまう。勢い余って人差し指と中指の間から親指が飛び出てしまうということも稀ではなく、先日も電車内で僕のそんな“卑猥なゼスチャー”を目の当たりにした女性があわてて目をそらしていた。いたたまれなくなった僕は、その手をポケットに入れ、親指を握りなおしていたのだが、その動きも彼女にとっては変質的に思えたらしく、こちらに弁明の機会を与えてもくれずに、次の停車駅で降りる振りをして車両を変えていた。
6年前に父を亡くした僕は、“死に目”に関しては母だけを気にすればいいわけで、以来、利き手と逆の右手の親指のみを隠しているため、生活に破綻は起きていない(と思っている)。それでも何かあった時には迅速に対応できるように、基本的には右手で物は持たないようにしている。
そういうわけで、今後私に食事をご馳走してくださる人がいるならば、左手のみで食べることが出来る鮨で、是非。
第4回 神経症(心配性?)的持ち物紹介 6.13更新

 デンマークにあるアンデルセン博物館には、童話王・アンデルセンが持ち歩いていたというロープが展示されている。極度の心配性だった彼は、旅行先で火事に遭っても逃げ出せるようにと、いつも鞄にロープを忍ばせていたという。僕から見れば、それはなんら驚くべきことではない。心配性(神経症?)なるもの、いついかなる時、どんなことが起こっても対処できるように、様々なアイテムを携行するのは当然の行為、実際僕も、常に必要最小限のグッズをバッグに詰めて外出している。今回は、その中のいくつかをご紹介してみたい。

皮スキ:お好み焼きで使うコテのような作業工具で、防水工事のバイトをしていた時に扱い方を習得。缶詰を開けたり、靴裏についたガムをそぎ落としたりと、あらゆるシーンで活躍するアイテム。必殺シリーズで山田五十鈴が見せた三味線の撥(ばち)の要領で使用すれば、武具の役割も果たす。

ストロー:突然の水害を想定して。シュノーケルの要領で使用する予定。中崎タツヤ氏の『じみへん』に登場した男性のエピソード(プール清掃時に事故で溺れそうになった時に備えて、コンビニでチクワを購入する)からヒントを得ている。

ソプラノリコーダー:突然の宴席へのお誘いを想定して。東京コミックショウから、山本コウタロー&ウィークエンドの『岬めぐり』のイントロまで、幅広い芸の提供が可能。もちろん、震災等で倒壊した建物に閉じ込められた際にも威力を発揮する。

これらに加えて、折り畳み傘に常備薬に地図、絆創膏(ばんそうこう)にビニール袋にトランジスタラジオにパソコンなどなど、携帯グッズは合わせて全30点あまり。重くて仕方がないので、最近は滅多に外出しなくなってしまった。本末転倒。 そういうわけで、僕の引きこもり生活の改善に力を貸してくださる人がいるならば、まずは鮨屋にでもお誘いくだされば、と。その際には、リコーダーで「レッドスネーク カモン!」を披露することも吝(やぶさ)かでないので、是非。
第3回 視線恐怖 6.6更新

 外出する時は、できることなら『犬神家の一族』の佐清(すけきよ)のようなマスクをかぶり、その上、帽子とサングラスで完全武装したい。視線恐怖症かつ他人に表情を読まれるのが何より嫌いな僕は常々そう思っているのだけれど、それではかえって人の視線を集めてしまうという可能性も大きい。なので、今のところは、他人と視線が合わないように帽子を目深にかぶり、表情を判読されないように、特大の花粉症用マスクで顔の半分以上を隠しつつ日々をしのいでいる。
 視線恐怖症は大きく4つにカテゴライズされるらしいのだが、僕が患っているのは、他人の視線に恐怖を感じる他者視線恐怖症と、人の目を見て話すのがダメな正視恐怖症で、これがいつごろ発症したのかは定かではない。ただ、幼い頃から常時、ここに書き記すことができないような不道徳的なことばかり考えており、視線を合わせるとそれらを見透かされてしまうような気がしていたのは覚えている。
 そんな僕がつい先日、とある心理カウンセラー養成講座に通い始めた。パニック障害やそれに伴う鬱状態の経験者であり、数え上げればきりがないほど多くの神経症を進行形で患っている自分なら、相談に訪れる人に寄り添ったカウンセリングができるのではないか、などと思い上がって。
 結果から言うと、失敗だった。カウンセラーの基本として、相談者の目を見て話を聞かなければならないということを最初の授業で知り、かついきなり受講生2人一組で擬似カウンセリングをやらされたのだが、これは僕にとってはかなりの苦痛で、しばらく治まっていたパニック障害の発作が兆すかと思うほど追い詰められた。初対面の人間と向かい合い、しっかり目を見て話を聞くなど、僕が最も苦手とするシチュエーション、とはいうものの、帽子にマスク姿で対応できるはずもなく、心理カウンセラーへの道は暗雲立ち込めるものとなってしまった。そんな自分が情けなくて、ますます人の視線が気になってしまう日々を送っている。
 そういうわけで、今後私に食事をご馳走してくださる人がいるならば、お互い向かい合って座らずに済み、正面から視線を合わさずに食べられる、カウンター掛けの鮨で、是非。
第2回 黴菌(ばいきん)恐怖 5.30更新

 泉鏡花は文壇内で知らぬ者がいないほどの“黴菌恐怖症”だったという。酒は煮立つまで燗をつけ、大根おろしは火を通さなければ口にせず、座してお辞儀する時には、掌(てのひら)が畳に触れるのは不潔極まりないと、手の甲を下に向け、さらにその甲を少々浮かせて頭を下げていたらしい。自分の症状はそこまで深刻ではない(と思っている)けれど、鏡花の心中、察して余りある。
 たとえば僕は銭湯に入れない。不特定多数の人間が浸かるお湯の中に体を沈めるという行為は、僕にとっては菌が跋扈(ばっこ)する下水道水で顔を洗うのと大差ないのだ。
“不特定多数の人間”関連でいうと、お金に触れるのも得意ではない。様々な場所を流通する紙幣や硬貨は不特定多数の人が手にしているわけだし、もしかしたら“菌”だけでなく人々の“念”までも運んできているかもしれないなどと考えると、もう……。そんなわけで僕は、大卒後すぐに入った金融機関を半年ほどで退職してしまったという“前科”もあったりする。
 さらに厄介なのが、他人の唾液を極度に警戒する“唾液恐怖”。酒席で人から「ぜんぜん食べないんですね」とよく言われ、「ご飯食べてきちゃったんですよ」とへらへら笑いながら答えるのだが、そんなことは大嘘だ。他人の唾液がほんの少量でも付着した可能性がある物を口にするのが絶対的に苦手な僕は、テーブル上でそんな危険にさらされている料理を食べるなどもってのほか、という観念に捉われ、どんなに空腹であろうと、手が出せないのだ。同席している人に対して、敵意も悪意もない。ただ、家族以外の人間の唾液が自分の体の中に入ることに、異常な恐怖心を感じてしまう。鏡花は谷崎潤一郎らと鍋をつつくこともあったというから、僕はある意味、鏡花以上なのか?
 そういうわけで、今後私に食事をご馳走してくださる人がいるならば、出されたそばから口にすることが出来る鮨で、是非。
第1回 尖端恐怖 5.21更新

 奥田英朗氏の直木賞受賞作『空中ブランコ』に、刃物はもちろん、秋刀魚の頭にすら恐怖心を抱くというヤクザが登場する。秋刀魚はともかくとして、先が尖ったものを見ると、目に刺さるのではないかなどと過度の不安に陥るのが「尖端恐怖症」というもので、神経症オンパレードの僕ももちろん患っている症状だ。しかも自分の場合、中学生時代の"女子更衣室覗き未遂"という、どうにも申し開きが出来ないような行いがきっかけになっている。
 当時、僕の通っていた中学の教室は、上部にハメ殺しのガラス窓があった。廊下側からその桟にあたる部分に指を噛ませ、懸垂の要領で顔を上げてゆけば簡単に内部を覗くことが出来る。そう判断した僕は桟に飛びついたのだが、指の力だけで全体重を支えるのはかなり厳しい。限界を感じながらふと首を下に向けてみると、そこには制服を掛けるためのフックがびっしりと並んでいる。その瞬間、「今、手が滑って落ちたら、上まぶたにあれが引っかかってちぎれちゃうな」と思って以来、尖ったものが一切ダメになってしまった。針や刃物はもってのほか、鉛筆や箸など、目を突く可能性があるものが近くにあるだけで、大声で意味不明の叫びを上げたくなる。挙句、自分がペンを使うことにすら恐怖を感じるようになってしまった。
 さすがにそれではまずいと思い、毎夜シャーペンを自分の目に向け、カチカチと芯を出し続けるという克服方法を試みた。一押しごとにミリ単位以下で近づいてくる黒芯を、何度も手で払いのけ折り続けたのだが、なんとか半年ほどで、たとえ先が尖ったものでも、自分が手にしている限りは冷静さを保てるまでに回復した。しかしながら現在でも、他人が尖ったものを持った瞬間に、嫌な脳波が頭の表面に伝わってくる。それが箸であっても。
 そういうわけで、今後私に食事をご馳走してくださる人がいるならば、箸を使わないで済む鮨で、是非。