著者経歴 中国政治・社会史
1960年 浙江省杭州市近郊の海塩で医師の家庭に生まれる。 食糧生産の「大躍進」計画が承認される。
1966年     毛 沢東、紅衛兵100万人を接見。文化大革命始まる。
1976年 16歳で学校を卒業し、歯科医師となる。 毛 沢東死去。四人組逮捕。
1983年 川端康成の作品に出合い没頭する。 鄧 小平が、「農村や都市で一部の人が先に豊かになることを許さなくてはならない」と発言。北京に高級フランス料理店「マキシム」がオープン。
1985年 カフカの作品に出合い、強い影響を受ける。 「全国の人民公社の98.4%が解体」(人民日報)
1987年 小説「十八岁出门远行」(邦題『十八歳の旅立ち』蒼蒼社刊)、「四月三日事件」(邦題『四月三日の事件』蒼蒼社刊)を発表。 第十三次中国共産党全国代表大会の記者会見に、胡耀邦総書記と中央政治局の5人の常務委員が揃ってスーツ姿で登場。台湾記者、初めて大陸を公開取材。
1988年 小説「世事如烟」(邦題『世事は煙の如し(上・下)』蒼蒼社刊)を発表。 「黒孩子(戸籍のない子供)100万人」(人民日報)。GDP成長率11.2%、ハイパーインフレ起きる。
1989年     胡 耀邦総書記が死去。テレビ中継された追悼会の遺体は人民服ではなくスーツ姿だった。 天安門事件発生。
1990年 小説「偶然事件」(邦題『アクシデント』平凡社刊)を発表。 国際収支悪化、GDP成長率3.8%に縮小。
1991年 少年時代の記憶の断片と父祖の伝奇的なエピソードをもとに小説「細雨与呼喊」を発表。後に「在細雨中呼喊」と改題して刊行。 江青、保釈中に自殺。
1992年 日中戦争末期から文革までの激動の時代を生きた家族をテーマに小説「活着」(邦題『活きる』角川書店刊/『生きている』みすず印刷所刊)を発表。中国で20万部を超えるベストセラーに。香港、台湾、欧州でも翻訳。 鄧 小平、武漢、深圳、珠海、上海などを巡り、改革開放と経済成長などの重要性を訴える(南巡講話)。
1994年 張 芸謀監督の映画「活着」がカンヌ国際映画祭で審査員特別賞と主演男優賞を獲得。 「前年9月から3月までの汚職・贈収賄2万2220件」(人民日報)。 三峡ダム建設に正式着手。
1995年 「活着」の姉妹編となる小説「许三观卖血记」(邦訳未刊行)、「女人的胜利」(邦題『妻の勝利』螺旋社刊)を発表。 中国が台湾近海にミサイルを発射(台湾海峡危機)。
1996年 小説「我没有自己的名字」(邦題『名前のない男』蒼蒼社刊)を発表。 育毛剤「101」で成功した大富豪、華達国際投資団・李 暁華総帥が小惑星に自分の名前を命名。
1997年 小説「黄昏里的男孩」(邦題『黄昏の少年』螺旋社)を発表。 鄧 小平死去。香港返還。
1998年 青少年の読書普及を目的としたイタリアの文学賞・グリンザーネ・カヴール賞を受賞。 中国のインターネット人口、北京の携帯電話利用者がともに100万人を突破。外貨準備高1400億ドルに。
1999年     「法輪大法は邪教である」(人民日報)。有人宇宙船実験機神舟1号を打ち上げ。
2000年     中国作家協会、天安門事件で政治亡命した高 行健のノーベル文学賞受賞を非難。
2001年     2008年のオリンピック開催地に北京が選ばれる。中国政府が初めて売血による集団エイズ感染が起きていたと発表。
2002年   国家統計局、2050年に世界第2の経済大国になる可能性を示唆。上海リニア全線開通。
2003年 小説「朋友」(邦題『朋友』蒼蒼社刊)を発表。 SARS大流行。中国初の有人宇宙船「神舟5号」打ち上げ成功、無事帰還。
2004年 フランスの芸術文化勲章を受章。 レノボ、IBMのパソコン事業を買収。中国初の整形美人コンテスト開催、吉林省出身の22歳が優勝。
2005年 小説「兄弟(上)」を発表。第1回中華図書特殊貢献賞を受賞。 北京で1万人反日デモ。
2006年 小説「兄弟(下)」を発表。「兄弟」のベトナム語訳刊行。初来日、鎌倉の川端康成の墓や、京都、奈良を訪ねる。 歴史教科書の問題を指摘した「氷点周刊」が停刊処分。古紙回収業者から身を立てた玖龍紙業(ナイン・ドラゴンズ・ペーパー)の女性董事長・張茵氏が「胡潤版中国長者番付」で第1位に。個人資産270億元。
2007年 「兄弟」の韓国語訳刊行。    
2008年 「兄弟」のフランス語訳、イタリア語訳、日本語訳刊行。 イギリスのヴァージン・ギャラクティック社が中国で世界初の民間宇宙飛行を20万ドルで募集したところ、7人の企業経営者(男性6人、女性1人)が応募。
参考資料:『アジア動向年表』(アジア経済研究所)『中国近現代政治史年表―1800 ~2003年』(家近亮子/晃洋書房)

著者のコメント

「文革の始まった年に小学校入学、文革が終わった年が自分が中学を卒業した年。結局勉強すべき時期はぜんぶ文革だった。だから私は教養がないのさ」

「80年代に、趙 紫楊と胡 耀邦が初めて中山服でなく、スーツを着て以来、みんながみんなスーツに走った。趙 紫楊と胡 耀邦は新品を着ていたに違いないけれど、市長や県長はみんな絶対に日本からのゴミスーツ(古着)だったはず」

「俺が海塩で学校に通っていた10年あまりの間、小さな町だが、離婚する夫婦はひと組もなかった。今やそこかしこ離婚だらけ。愛人だらけ。何年も前から『まだ同じ相手なのか?』と驚くのが挨拶代わりというのも冗談にならない」

「こんなに広い中国で、宇宙旅行に応募した7人のうち3人が李 光頭と同じ浙江省出身。『李 光頭がたくさんいる』という報道もあった」

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