ぼくが初めてスタア・バーにいったのは、開店して間もない二年すこしまえのことでした。有楽町のホテルで開かれた文学賞のパーティのあとで、文藝春秋の編集者Sさんがこういうのです。
「世界一になったバーテンダーがやっている店があるから、いってみませんか」
このSさんは、料理のおいしい店といい酒をのませてくれる店に関しては、文芸編集よりずっと凄腕と評判です。ぼくはもちろん、ごいっしょしたいといいました。冬空のした銀座四丁目、三丁目をすぎても、まだ足は止まりません。
ここですと案内されたのは、飲食店の灯がぐっと減ってしまう銀座一丁目。控えめな看板のした、地下へおりるしっとりと暗い階段が口を開けています。専用の階段をおりていくと、よく磨かれたガラス越しに落ち着いたバーの景色が、一段ごとに見えてきたのです。
(ああ、このバーはだいじょうぶだ)
すしでもそばでもバーでもいいけれど、いい店にはひと目見てそう感じさせる不思議な力があるものです。その夜以来、五、六回ほどスタア・バーに足を運んだでしょうか。常連とはいえない浅いつきあいなのですが、去年の七月にはおかしな縁で、とても濃密な二時間をすごすことになりました。
直木賞の選考待ちを、このバーですることになったのです。版元の編集者にかこまれていつもながらの無駄話をするだけですが、ちょっと重たかったり、緊張したりと時間の流れかたが、普段とは違うのです。そのあいだ岸さんの気づかいは見事なものでした。
全員ののみものの減り具合、出前でとってくれたすしへの目配り。受賞した場合すぐに記者会見になるので、アルコールを控えていたぼくに、マンゴーをつかったすっきりしたカクテルをつくってくれたりもしました。その夜の結果はみなさんご存知のとおりなのですが、もし選に漏れたとしても、あの夜が気もちのいい夜であったのは間違いないことです。
ふらりと気軽にやってくる人に、気もちよくバーですごしてもらうために、プロがどんなことをするのか。岸さんのこの本には、そのすべてが書かれています。
カクテルをつくるのは、もちろん重要だけれど、それはバー全体の仕事の二、三割くらいでしかないという言葉には、なるほどと納得します。考えてみれば、作家にとって小説を書くことも、やはり三割の仕事です。
ぼくがこの本を読んで一番うなったのは「氷にもトロがある」という一文でした。カクテルをつくる過程で氷は脇役にすぎないが、すしにとってのシャリと同じで、すべてを支える存在だというのです。
スタア・バーでは氷を最適な状態にあわせて加工するために、毎日オープニングの五時間まえには店にでるといいます。氷のおおきさは三種類を用意。ほかにもオン・ザ・ロック用の丸いごろりとした氷に、三工程二日がかりでつくるブリリアントというこのバーだけのオリジナルもあるそうです。
ぼくは一度そのブリリアントでウイスキーをのんだことがあるのだけれど、「ああ、きれいだな」と一瞬感じてもらうために、それほどの手間をかけているとは、想像もしませんでした。
おしぼりも業務用のものではなく、全部手づくりだそうです。たっぷりしたおおきさと厚さのある目が詰まったものを、毎日洗って干して、香りのいい柔軟剤に浸す。これを大量に絞るために、手に絞りダコができるといいます。バーの仕事の残り七割の目立たないけれど、重要な部分なのでしょう。
ぼくはこの本を夜中に読んでいました。つぎにスタア・バーにいったら、なにを注文するか、赤線を引きながらです。ベッドのなかでのどが鳴ってしかたありませんでした。アルコールはあまりつよくないので、ロング・ドリンクがいいなあ(ちなみにインターナショナル・カクテル・コンペティションのロング部門で、岸さんは日本人初の優勝者)。爽やかなのみ口のものがいいよなあ。普段はジントニックかバーボンソーダくらいだから、目新しいものがいいなあ。というわけで、今回ぼくが選んだのは三つ。
フレッシュミントの葉を十枚つかうあっさり甘口のグラスホッパー、注文を受けてから桃の皮をむいてつくるベリーニ(これには桃のフレッシュジュースでつくったアイスキューブいり)、そしてフレッシュトマトでつくるブラッディメアリー(ライムで濡らしたグラスの縁にはたっぷりとポルトガルの海塩つき)。どうですか、うまそうでしょう。
この本を読んだ人の反応は、絶対にぼくと同じはず。一刻も早くカクテルをのみたくてたまらなくなるに決まっています。
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