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私はこう読んだ

再現される輝き 北方謙三(きたかたけんぞう 作家)
 人の輝きを文章で再現するのは至難である、と私は思っている。ましてそれが、大衆の注視の中で輝いたものなら、それぞれの心にまで届いた輝きは、個人のその場の感動の中で完結してしまっていると言っていいだろう。刹那(せつな)と普遍性を重ね合わせた、複雑なものの中にその輝きはある。
 かつて、世界チャンピオンが誕生するのを見た。世界記録が出された競技場にいた。それを語ることはできても、再現するのは難しい。だから、さまざまな伝説として、語り継がれてきたのだ。
 北島康介というひとりの青年が打ち立てた、平泳ぎの世界記録も、やはり伝説として語り継がれることになるのだろうか。
 本書は、北島康介という水泳選手を、多角的な視野から捉えた、ノン・フィクションである。小説で、ひとりの水泳選手の輝きを描くのは、それほど難しいことではないだろう。
 しかしそれは、再現でなくフィクションである。現実という制約の中で書かれるノン・フィクションで、小説でなし得ない再現が、果して可能なのだろうか。
 北島康介を見つめるのは、五人のエキスパートの眼である。
 コーチ、映像分析、戦略分析、肉体改造、コンディショニング。それぞれを担当する五人が、通じ合い、反撥し、時に闘う。読み進むほどに引きこまれるのは、各分野におけるその緻密さゆえだろうか。一秒の数十分の一などという数字は、常人にとって数字であって数字ではない。瞬間という、あるかないかわからないような時である。あやふやでありながら、冷徹でもあるその時が、すべてを決する。勝敗という結果を作り出す。
 読んでいるうちに、これは科学にほかならない、と私は思った。資料の収集と分析と検証の積み重ねが、あやふやさを含んだ時を、やがて冷徹な数字というものにすべて昇華させていく。これは、ただ記号として読む数字ではない。実体を伴っているのだ。つまり生きている。どこかで、科学を超えてしまっている。
 いかに科学的にすべてが分析されたとしても、スポーツが百パーセント科学であるはずはない。それは、人間の存在が、科学ではないことと同意である。
 科学的なものをどれほど積み重ねようと、最後に結果を出すのは、北島康介という生身の人間である。強さも弱さも持ち、理性も情念も持った、ひとりの青年なのだ。
 本書は、しばしば北島康介の生身を描く。肉体として生身というのではなく、サイボーグではなく人間であることを、科学の隙間に描き出す。だから引きこまれるのだ。ただ科学を書き綴ったものなら、それは資料であり文献である。
 本書がすぐれたノン・フィクションであり得ているひとつの理由に、北島康介を生身の人間として捉えようという姿勢がある、と私は思った。そしてこれこそが、ノン・フィクションの本質なのだろう、という気がした。
 集められた資料は厖大で、取材は精緻をきわめたに違いない、と想像できる。そこで書き手に許されるのは、選択という行為だけである。創造力が介在する余地はない。ノン・フィクションが、ノン・フィクションたる魅力と迫力を持つのも、そこにあるのだろうと私は思った。
 選択には、基準が必要である。
 読み進めながら、じわりとその基準が私に伝わってきた。作者の根底にあるのは、スポーツを通した人間観である。だからこそ、科学者と呼んでいい五人が、きわめて人間的なのだ。喜怒哀楽すべてを、この五人は剥き出しにする。いや、作者がそこを選択して描いている。数字が並んだ行間にさえ、それは滲み出しているように思えた。人間を見つめる眼によって選択され、描き出された五人の姿は、純粋な情熱は人間の美徳のひとつだという、作者のメッセージのように読める。
 そして、北島康介である。
 天才なのか、努力の人なのか、あるいはその両方なのか。眼が吊り上がった闘う時の顔は、根底に科学を抱えながら、それを超えたところにある闘う人間の情念を読者に伝えて余りある。しなやかで美しいけものの姿を、私は連想した。繊細で傷つきやすい、水上の小動物のようにも思えた。
 その北島康介が、世界記録に近づいていく。徐々に、しかし確実に、曖昧で微小な数字を、冷徹なものに変えていく。そして輝く。その輝きは、プールサイドで見て感じる輝きとは、別のものだろう。科学に支えられ、野望を抱き、闘争の火を燃やす。それらのすべてが、世界記録達成の数行の描写に凝集される。
 本書は、人の輝きを普遍的な部分で、深く、再現していると言っていいだろう。北島康介という逸材の存在と、作者の人間観が見事に調和した、出色のノン・フィクションである。
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