立ち読み

『小倉昌男 祈りと経営 ヤマト「宅急便の父」が闘っていたもの』 森 健(小学館刊)

序章 名経営者の「謎」 

 アメリカに行かせてよいものなのか──。

 二〇〇五年三月、ヤマト福祉財団の常務理事、伊野武幸は銀座の一角で考えあぐねていた。財団理事長の小倉昌男がアメリカに行きたいと言い出したためだ。小倉は齢八十という高齢、しかも、小倉が希望していたのは数日間の短期ではなく、ひょっとすると九十日を超そうかという長期の滞在だった。そうなると渡航要件として何らかのビザが必要になる。

 だが、それ以上にもう一つ伊野が不安だったことがある。小倉の健康だ。

 小倉はがんだった。

 前年の春、定期的に通っていたクリニックで異常が見つかった。春のゴールデンウィークに北陸へ足を伸ばし、江戸後期の歌人・良寛の古里を楽しんだ。その直後、体調を崩し、精密検査ですい臓がんと診断された。

 そこから小倉は長い入院生活を送ることになった。がんは春、夏、秋と季節とともに進行し、秋には肺にも転移していたことが発覚。若い頃に結核で片肺を失っていた小倉にとって、がんはさらに肺機能を低下させ、身体への負担も増していた。酸素吸入が必要になったのは当然のことだった。

 こうした状況を知っていただけに、伊野は小倉の渡米に賛成ではなかった。がんの病状やステージの進行具合に加え、八十歳という高齢。そこに航空機を使って十数時間という移動となれば、身体への負担ははかりしれない。長年小倉を支えてきた伊野からすれば、渡米は懸念のほうが先に立たざるをえなかった。

 一方で、強く反対しにくい事情もあった。小倉が向かおうとしていたのは、自身の長女・真理のもとだった。真理は米国人の男性と結婚し、四人の子どもとともに家族でカリフォルニア州ロサンゼルスに住んでいた。米国の病院など治療目的の渡米であれば、留まってもらうよう、伊野は進言するつもりだったが、我が子のもとへ向かいたいという希望であれば、強い反対はできなかった。

 さらに言えば、と伊野は振り返る。

「小倉さん自身、自分の体力がどの程度かはわかっていたはず。この期に及んで、渡航を希望するのであれば、小倉さん自身にもある種の覚悟があるんだろうと思いましたね」

 だが、不安は捨てがたく存在した。すでに酸素吸入を必要としていた小倉が飛行機に搭乗するとなれば、気圧の変化などの体調管理も含め、医師や看護師の同行も考えねばならない。航空会社へも対応策などで事前の相談が必要だろう。もし現地で体調を崩したときは……という想像も自然と想起されたが、そこから先は深く考えないようにした。いずれにしても、主治医への相談、航空会社などいくつもの対応が必要だった。そして、もちろんヤマト運輸に対しても報告をしなければならなかった。

 伊野もかつてはヤマト運輸の社員だった。小倉が社長から会長職の頃、労働組合の委員長を務め、労組と小倉の間を取り持ってきた人物だった。数万人という社員を抱えるヤマトにとって、労組は社員同士をつなぐ重要な紐帯であり、そうした社員との関係を維持するために、小倉はつねに労組とは良好な関係を保ってきた。労使協調路線で歩み、小倉からの信用が厚かった伊野はヤマトを退職すると、福祉財団の理事に登用されていた。 

 そうした関係もあり、財団に入る前は仕事と直接関わりのない用向きで、財団に入ってからはやはり財団の業務、あるいは財団に関わりのないことでも伊野は細々と小倉の雑事をこなすことがあった。伊野は身体も大きく、響く声ではっきりした物言いをする。数万人が加入する組合においても、人心をつかむ魅力ある人物だった。だが、小倉に対しては殿に仕える忠臣のような存在でもあった。

 そんな伊野にとって、この期に及んでリスクを冒して渡米するという小倉の意図はわからないというのが本心だった。それでも本人の意志とあれば、手続きをとらねばならない。それも病状を考えれば、のんびり構えている余裕はなかった。

 伊野は雨のなか、病院へと車を走らせた。それは小倉との今生の別れの第一歩でもあった。


“宅急便の父”こと、ヤマト運輸(現ヤマトホールディングス)の小倉昌男が他界したのは日本時間の二〇〇五年六月三十日。それから十年の月日が経つが、なきあとも小倉は名経営者として敬われている。

 郵便以外の物流インフラを日本ではじめてつくりあげた小倉は、規制緩和のため霞が関の公官庁と闘い、後年は障害者福祉に貢献した。代表的な小倉の業績は、いずれも容易ならざるものだが、そればかりではなく、未来の日本を先取りしていた先見性や戦略性があり、弱者に向けた優しさもある取り組みだった。

 小倉自身がものした著書『小倉昌男 経営学』は刊行から十五年以上が経った現在も、ビジネス書として高い評価を得ている。あるビジネス誌では二〇一四年のビジネス書のオールタイムランキングで一位にも選ばれている。彼がビジネスで成してきたこと、経営トップとしての組織に対する心がまえといった部分はなかば“伝説化”されているところもある。経営者として小倉を称える声、経営者としての小倉、そしてヤマトを描いてきた書籍はこれまでに多数出されている。

 事実、二〇一三年にはヤマトに関する本が立て続けに六冊も出された。その著者には小倉のあとに社長を務めた都築幹彦や瀬戸薫、目下ヤマトホールディングスの代表取締役会長の木川眞などもいる。この年、偶然にしてはやや多すぎると思いながら、ヤマト関連の書籍を読みはじめた。そして、それらを読んだあとで、ふたたび小倉自身の書籍に立ち返って通読してみた。

 ビジネスの戦略家としても、大組織の長としても、あるいは、引退後に福祉に力を入れたことなど、どの角度で見ても、すばらしい人物であろうと想起された。

 だが、それらの書籍を読んで、どこかもやもやする部分がいくつかあった。なぜなのかを考えると、どうしてもわからなかったことが三つほどあった。

 その一つは、退任後、なぜ彼はほとんどの私財を投じて福祉の世界へ入ったのか、ということだ。

 小倉は一九九三年、自身が所有していたヤマト運輸の株三百万株のうち時価二十四億円の二百万株を原資にヤマト福祉財団を設立した。一九九五年からはその活動を障害者の就労支援に絞り、障害者が働けるパン屋「スワンベーカリー」の立ち上げなど、障害者が月給で十万円はもらえるような仕組みづくりの活動に取り組んだ。そして、二〇〇一年には保有していた、時価二十二億円の残りの百万株も財団にまるごと寄付した。

 小倉はこうした福祉への取り組みについて、自著でこう説明している。

〈そもそも、私がなぜ福祉の財団をつくろうと思ったのかというと、実ははっきりした動機はありませんでした。ただ、ハンディキャップのある人たちになんとか手を差し伸べたい、そんな個人的な気持ちからスタートしたのです。〉(『福祉を変える経営』)

 ただでさえ就労や生活が厳しく、多くの支援が必要な障害者福祉の世界に寄付をすることは、歓迎こそあれ、問われるべきことではないだろう。

 しかしながら、私財を投じてとなると、話はやや次元が異なる。しかも、財団まで設立し、私財四十六億円を投じて福祉の世界に入ったというのに、〈はっきりした動機〉がないというのはいささか奇異に思えた。

 小倉が福祉の世界に入って取り組んでいたことは、障害者の自立、言い方を変えれば、障害者の就労環境の改善だ。精神でも肉体でも障害がある人が雇用されやすくなるよう経営者に働きかけるとともに、業務内容に収益性が高まるヒントを与える。その結果、障害者の賃金を上げ、待遇を改善させることを目的とした。そのために小倉は手弁当で全国を行脚し、障害者を雇用する事業者などを集めて講演を行い、精力的に活動した。

〈(ヤマトでの)経験を(障害者の方が働く)共同作業所の運営当事者の方たちにお話しして、「経営」の重要さを学んでもらい、少しでも多くの賃金を作業所で働く障害者に払えるような仕組みをつくるのに役立ててもらえるようにしよう──。〉(同前。カッコ内は筆者による)

 こう自身でも記すように、いわば明確な目的をもって活動していたのである。

 にもかかわらず、動機ははっきりしたことがないという。

 実際、ざっと関係文献を眺めてみても、ヤマトの経営者時代に障害者福祉の活動をしていた形跡、関心があった様子は見受けられなかった。彼の足跡を辿っても、福祉への取り組みは非常に唐突だという印象を拭えなかった。

 疑問の二つ目は、小倉の人物評への疑問だ。外部からの人物評と小倉の自分自身への評価の間には小さくないギャップがあった。

 小倉昌男といえば、経済界では「名経営者」という代名詞のほか、官庁の規制と闘い、行政訴訟も辞さなかった「闘士」というイメージがある。宅急便では運輸省(現国土交通省)の免許を巡って悪習的な規制と闘い、九〇年代になって立ち上げたメール便では郵政省(現総務省)と「信書」を巡る論争で闘った。論理をもって不公正な制度に立ち向かう姿は、論理と正義の人という印象を経済界に与えた。

 だが、著書を開くと、大きな声の言葉はまったく見出すことができなかった。それどころか自分自身について語るところでは、「気が弱い」という表現が出てくる。それも一度や二度ではない。ということは、少なくとも気が弱いことは事実であり、また、自身でもパブリックイメージと本当の自分にギャップを覚えていたことがうかがえる。

〈どうも私は世の人々から、気が強くてケンカっ早い人間だと思われているようだ。おそらく、宅急便の事業などをめぐって役人と徹底的に闘ってきたことで、そういうイメージが広まってしまったのだろう。(略)実際は、自分でも情けなくなるぐらい気の弱い人間だ。ケンカっ早いどころか、むしろ、何か言いたいことがあっても遠慮して引いてしまうことのほうが多い。〉(『「なんでだろう」から仕事は始まる!』)

〈私は気が弱い。おまけに引っ込み思案で恥ずかしがり屋である。そのため人前でしゃべるときにはたいへん緊張してしまう。そんな自分の性格がとても嫌だ。「気の弱い人間がよく役人とケンカをしたものだ」と思われるかもしれない。しかしそこは経営者として、筋の通らない理屈で事業を妨害してくる人間を許すわけにはいかなかったのである。〉(『小倉昌男の人生と経営』)

 これはどういうことだろうか──。小倉の本を読み返すなかで、不思議と頭にひっかかったことだった。

 それは筆者自身の記憶とも結びついている。筆者は一度だけ小倉にインタビューした経験がある。

 一九九八年春、折からの航空自由化に絡む空港における規制問題がテーマで、取材時間は一時間半ほどだった。それでもそのときの記憶は強く残っていた。あまりに世間とのギャップが大きかったからだ。当時すでにヤマト運輸の役職はすべて退任していたが、規制と闘った名声を知ったうえで取材を依頼していた。厳しい言葉を求めつつ、人柄もそうした迫力を想定していた。通された部屋は財団の一室だったが、狭く質素な部屋だった。宅急便という物流インフラを全国に敷き、行政と闘った名経営者という人物が使用するにはあまりに小さな部屋だった。

 そして、人物像もまた世評とは隔たりがあった。身長は一七〇センチメートルほど、比較的細身のすらっとした体格で、ゆっくりした歩調で部屋に現れた。イメージとしては哲学者のような威厳があるが、話し方はぼそぼそと小さな声だった。ただし、運輸行政の問題点を突く論理性はきわめて明晰で、鋭い論点はそのまま記事になる力をもっていた。若いときには、若さゆえの勢いや体力からもっと押し出しや迫力のある話し方もあったのかもしれないが、その時点ではそうした影はあまり見えなかった。いずれにしても、「闘士」といった表現から遠い印象の人物だった。

 また、関連書からもった疑問もあった。 

 物流業界に詳しい神奈川大学名誉教授の中田信哉の著書には、小倉と長年親しかった同業者の話として、味の素物流の元社長、坂本勲夫の話が紹介されている。

〈坂本さんは『小倉昌男 経営学』を読んで、「一つ違和感を覚えた」と言う。それは「経営は理論である」というくだりである。坂本さんは「小倉さんというのはまったく情の人だ」と語る。「『経営は情だ』の間違いではないか。あれは逆説ではないか」と思ったそうだ。〉(『小倉昌男さんのマーケティング力』)

 ただの読者ならいざ知らず、長年親しかった人物が「理」ではなく「情」だと評す。小倉自身の評も頭に置くと、なおさら無視できない指摘だった。

 そして、三つ目の疑問は最晩年の行動だ。

 小倉の逝去を知らせる訃報は二〇〇五年七月一日、朝日や毎日など各紙の一面トップで報じられた。

〈訃報:小倉昌男さん 80歳死去=ヤマト運輸元社長
 宅配便の生みの親で運輸行政の規制に徹底抗戦してきたヤマト運輸元社長の小倉昌男さんが30日、腎不全のため米ロサンゼルス市の長女宅で死去した。80歳だった。葬儀は親族のみで行う。喪主はヤマト運輸取締役の長男康嗣(こうじ)さん。同社が8月上旬にお別れの会を開く予定だが、日取りなどは未定。〉(毎日新聞)

 記されていたのは簡潔な紹介だが、不思議に思ったのはなくなった場所だった。なぜアメリカにいたのかと疑問に思った。長女宅という記載に違和感があったわけではないが、有効な治療法や医師を求めて彼の地に向かったのだろうかといった想像が働いた。後日の報道で、渡米は自分の意志だったと知ったが、八十歳という高齢で、なぜアメリカまで行くことにしたのだろう。そんな行動にも疑問を覚えた。

 こうして既出の書籍や資料にあたっているだけでは、人物像はいまひとつ明確な像を結ばなかった。成した事業の大きさ、世間に与えた影響。それらを支える内的動機を考えると、まだ語られていない言葉や背景があるように思えた。

 本当の小倉昌男とはいったいどんな人物だったのか……。

 そんな単純な疑問をもったのが二〇一三年の晩秋だった。

 もう少し詳しい人物像を知りたいのですが、と福祉方面の関係者にコンタクトをとったときには、どんな方向の話になるのか、まるで見当がついていなかった。

 ただし、著書などでほとんど触れていないところに、何かカギがあるのかもしれないとは考えていた。もしそうだとするなら、個人的な生き方に関わる部分、信念や信仰、家族といった関係ではないかと考えられた。

 取材を進めていくなかで、その想像は次第に確信へと変わっていったが、同時にそれは、小倉の抱えていた思いを痛いように共有していく過程でもあった。

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