立ち読み

『戦禍に生きた演劇人たち 演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇』 堀川 惠子(講談社刊)

序章 ある演出家の遺品
 

 無機質な会議室のドアを開くと、二〇人は座れそうな長テーブルの上に、巨大な段ボール箱がびっしりと並べられていた。事前に聞いてはいたが、まずその量に驚く。中に収められているのは全て、ある演出家の遺品だ。没後四〇年、これまで処分されたと言われてきた品々である。

 研究棟が建ち並ぶ早稲田大学の敷地の一角に、ひときわ目をひく演劇博物館がある。一七世紀ロンドンの劇場フォーチュン座を模して、正面にはエリザベス朝時代の舞台が、両翼には桟敷席をイメージした木枠の窓が配置され、キャンパスの中でそこだけ異空間を形成している。昭和三年(一九二八)、坪内逍遥の古希を祝って設立されて以降、国内外の演劇関連に特化した資料を一手に所蔵する、日本で唯一の専門博物館として運営されてきた。

 その倉庫の奥深くに、演出家、八田元夫(はったもとお)の膨大な遺品は眠っていた。一部の演劇台本を除いては外部に公開されるデータベースにも登録されておらず、一九九〇年代初頭に寄贈されて以降、誰の目にもふれていない。一度、アーキビストの手によって新品の封筒に分類されてはいるが、量が膨大で、完全には整理しきれていないのだと担当者は申し訳なさそうに説明した。

 八田元夫(一九〇三~一九七六)という名前を聞いても、ピンとくる人はもうほとんどいないだろう。八田は、戦前、戦中、戦後と、三つの時代を新劇の世界に生きた演出家だ。子も持たず、趣味も仕事も芝居だけ。舞台に費やした歳月は、七二年の生涯のうち五〇年以上。文字通り人生を演劇に捧げ尽くした男である。
  

 遺品の入った封筒を、ひとつひとつ開けていく。

 まず演出家になる前のものと思われる品々が現れた。古びた家族写真には、広い庭に丸髷(まる・まげ)に着物姿の母親と勝ち気そうな男の子、明治末期のものらしい。大正一五年(一九二六)発行の東京帝国大学文学部の卒業証書、いやに大きく威圧的だ。聞き慣れない社名の新聞社の採用通知もある。八田に新聞記者という前歴があったとは初耳だ。

 別の封筒には、紅白の大入り袋が何十枚も詰まっていた。公演の切符が完売した時に配られるご祝儀袋で、表には墨字で「八田様」とある。テレビや映画と違い、肉体の芸術とも言える芝居は、板の上の一瞬だけが真実だ。後には何も残さない。確かにそこに舞台があり、大勢の観客の胸を打ったであろう証ともいえる大入り袋は、思い入れの深い品に違いない。どれも皺ひとつないうえ色褪せてもおらず、いかに大切に保管されていたかが感じられる。

 その他、戦前の劇評、戦中の演出ノート、芝居のパンフレット、書きなぐられたメモの類、手紙、そして膨大な草稿など、細かなものまで数えれば万単位に届きそうな分量だ。

 加えて写真は約一七〇〇点にのぼる。撮影が許されていなかった戦争末期の舞台写真も大量にあった。ある舞台の上には「航空機増産推進移動演劇会」という横断幕が張られている。軍需工場に派遣された時のものだろう。簡素な木造りの舞台に、満員の観客が前のめりで見入っている。テレビもない時代、限られた空間に様々な世界そして人生を見せてくれる芝居は大変な娯楽だった。

 ラジオ放送の収録現場で撮影された写真もあった。一本の太いマイクを囲んで、スーツ姿の俳優たちが台本片手にポーズを取っている。後ろには、巨大な日の丸の旗が掲げられていた。
  

 戦後の八田元夫をよく知る一人が、俳優の近石真介(八六歳)だ。近石は『サザエさん』の初代マスオ、『ルパン三世』の銭形警部の声、最近ではテレビ番組『はじめてのおつかい』のナレーションで知られ、舞台は退いたが声優として息長く活躍している。その近石にとって八田元夫は、師匠であり俳優人生の原点だという。

 とにかく八田の演出は独特だった。演技には絶対に形を付けず、俳優の内から生まれてくる感情を何よりも大切にした。

「演じるな! 感じろ!」

 これが決まり文句。そこからの沈黙は長かった。俳優が演技で応えると、「そうだ! そこだ! 感じたか!」と全身で歓喜する。借り物の演技を嫌い、頑固なまでにリアリズムに拘った。忍耐強さでは比類のない演出家だったという。

 そんな情熱溢れる演出家が、舞台を離れれば一転、気弱な男になった。敵は作らず、喧嘩はせず、ちょっと怖がりで、つまらぬことにグズグズ悩む。「モッちゃん、モッちゃん」と呼ばれ、多くの演劇人に愛されたと、劇作家の和田勝一は書いている。

 八田は終生恐らく、面と向って人と激論対決するというようなことはなかったのではなかろうか。

 私が勘違いをして激昂しても、彼は強く抗弁するのではなく、泣くような声で「違うんだよ……。違うんだよ……」と訴えるようにいうだけである。……/八田は死ぬまでこの童心を失わなかった。押し倒されふんづけられながら、この童心で演劇に夢中になれたのだ。子供が無心になるように、彼は芝居によって無心の境地に遊んでいたのではなかろうか(『新劇』昭和五一年一一月号)。

 若者たちに交じって立つ八田の姿は、みなより頭ひとつ低く痩せっぽちだ。集合写真ではいつもオマケのように、隅っこに遠慮がちに写っている。鼻にかかる独特の丸眼鏡は一時代前のインテリ青年の臭いがして、どこか愛嬌がある。白髪混じりの長い顎髭は浮き世離れした仙人のよう。もともと皺くちゃの顔が、笑うとさらにクシャクシャになる。

 無邪気な子どものように、童心そのままに演劇の世界に没頭したという八田元夫。しかし、演出家として彼が歩んだ道のりは決して平坦なものではなかった。
  

 私が、八田元夫という演出家の存在を知ったのは、二〇〇四年にさかのぼる。

 東京・目黒の五百羅漢寺に、劇団「桜隊」の慰霊碑がある。桜隊は昭和二〇年八月六日、アメリカが広島に投下した原子爆弾で全滅した悲劇の劇団として知られている。九人の隊員は被爆した場所こそ広島だが、その直前まで東京に住まい、東京を拠点に活躍していた俳優たちだった。東京に慰霊碑があるのはそのためだ。

 八田元夫は戦争末期、その桜隊の演出家を務めた。東京から広島にも同行したが、運命のちょっとしたいたずらで原爆の惨禍を免れ、命を繋いだ。八田は仲間たちの最期を見届け、そして彼らの骨を拾って歩いた。そのことを戦後ずっと背負って生きた。

 八田が桜隊について書き残した記録に、『ガンマ線の臨終』(未来社・昭和四〇年)がある。演出家ならではの極めて冷静な観察眼で、桜隊の悲劇を詳細に伝えている。

 この記録を参考に、映画監督の新藤兼人はドキュメンタリー映画『さくら隊散る』(近代映画協会・一九八八年)を制作したし、井上ひさしは戯曲『紙屋町さくらホテル』(初演は新国立劇場・一九九七年)を書き上げた。大御所二人に並記するのは気が引けるが、私も二〇〇五年、NHKで桜隊の被爆を描いたテレビドキュメンタリーを放送した。

 しかし、番組の制作にはどうしても乗り越えられない壁があった。描けたのは、原爆投下前後の「点」でしかない。なぜなら戦前から戦中、そして戦後へと移ろう演劇界の歩みを描くための歴史的な資料が決定的に不足していたからだ。

 なぜあの時代、彼らが桜隊というひとつの劇団に集まったのか、俳優たちは何に苦しみ、何に生き甲斐を見出し、何と戦い、そしてどんな事情を抱えてあの夏の日、広島に居合わせることになったのか。当時の演劇界全体を巡る背景事情には、どうしても埋めることのできぬ広大な空白が広がっていた。

 実は新藤兼人監督も、先にふれた自身のドキュメンタリー映画の制作について心残りがあることを吐露している。
  

 それから併せて、戦争中の新劇を含めた演劇人たちがどんなふうに国家体制の中で苦しんで生きたかということもやったんですが、時間の都合で十分ではありません。今後その点にしぼり、また誰かがやるようなことにでもなれば結構と思います(桜隊原爆忌の会・昭和六三年会報)。


 新藤監督もまた、桜隊という存在の向こうにチラチラと覗く演劇界の暗い影に、まだ描くべきものがあると感じていたようだ。

 八田元夫は、決して日の当たる場所に出ようとしなかった。数多くの俳優たちに陰から寄り添い、舞台の袖から戯曲の真髄を極めることに専念した。これまでスポットライトが当たることは皆無だったといっていい。

 しかし八田は、演劇界を知り尽くしていた男である。桜隊の記録だけでなく、もっと多くの資料を残しているのではないか。かなりのメモ魔であったことも伝え聞いた。私は改めて八田の遺品を探した。

 彼の膨大な遺品を早稲田大学演劇博物館に運び込んだのは、実は八田の弟子だったことが分かった。その貴重さをよく知っていて、処分される直前に目ぼしいものを自分の家に運び込み、長く保管していたのだという。その人も今や高齢のため話を聞くことは叶わなかった。

 戦時中の演劇界については、まとまった資料はほとんど残されてこなかった。戦災により劇団の資料は焼失し、国の記録は意図的に焼かれた。時代の変化が急激かつ複雑であったことも、後の検証を難しくした。一方で、改めて光を当てることにより、演劇界の不都合な真実が浮かびあがるという事情もあった。当事者たちによって秘されてきた事実も少なくないからだ。
  

 八田元夫の遺品には、大正デモクラシーに花開いた新劇が、やがて昭和に入って政治に揉まれ、蹂躙され、激しく歴史に翻弄される道程が刻まれていた。抵抗、苦闘、そして哀惜――。その渦のただ中に、八田は生きた。彼の遺品を辿れば、おぼろげで雲を掴むように思えた遠い彼方の記憶がはっきりと色を帯びてくる。

 これから始まる物語は、演出家八田元夫の眼を通して見えた、演劇界の足跡だ。戦禍の中に自由を奪われ、手足を縛られ、重い枷(かせ)をはめられ、それでも芝居の世界に生き抜いた舞台人たちがいた。互いを深く愛し、戦争で離れ離れになってもなお、演じることを通じて心を通い合わせようとした俳優たちがいた。

 彼らが生きた時代に向きあう時、私たちは改めて反芻することになるだろう。あの時と同じ空気が今、この国に漂ってはいやしないか。頭上を覆い始めたどす黒く重い雲から、再びどしゃぶりの雨が降り出しやしないか。そしてその時、果たして私たちは、足を踏ん張って立ち続けていくことができるだろうかと。

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