立ち読み

『石つぶて 警視庁 二課刑事(でか)の残したもの』 清武 英利(講談社刊)

序章 半太郎

  
 廣瀬日出雄は、大正の終わりに生を受けた白面の控え目な男で、「半太郎」を自称していた。

 学校、軍隊、就職とすべての経歴が中途で終わっており、「普通の人の半分しかできなかったから」というのが、その理由である。彼が米寿の節目に自費出版した自叙伝も、表題をあえて『人生半太郎』とした。

 彼の為すことがしばしば事半ばで終わったのは、その資質や勤勉さに問題があったからではない。道を進もうとすると、その先には決まって、彼の力ではどうにもならない出来事が待ち受けていたのだった。

 郷里は、信州最北端の長野県下水内(しもみのち)郡栄(さかえ)村である。伯父は辺陬(へんすう)なこの地の村長と消防団長を兼ね、父は村議で、「萬屋(よろずや)」という屋号の小さな造り酒屋を営んでいた。

 日出雄は長男だったから使用人と二人の子守に囲まれ、跡取りとして特別に育てられている。尋常高等小学校の同級生の大半は、梅干しや味噌漬けが弁当のおかずだったが、彼の弁当には魚やタラコが詰まっていた。「坊」と呼ばれ、翳(かげ)のない進取の気性を備えていた。

 その彼の道を阻んだ一つが、太平洋戦争である。

 彼は、積雪日本一を記録した山間(やまあい)の小学校からただ一人、県境を越え、新潟県の旧制十日町中学に進んでいる。卒業後、上京して、東京の西神田にあった理数系の「研数専門学校」に入学した。その途端に召集令状が届いた。

 金沢の東部第四十九部隊に入隊し、さらに幹部候補生として予備士官学校に入学すると、今度は半年後、終戦の玉音放送が流れる。

 紹介する人があり、大蔵省造幣局の東京支局用度係、終戦連絡調整中央事務局秘書課を経て、外務省事務官の職に就いた。ところが、ここも五年足らずで辞めてしまっている。それが「俺はいつも半人前だった」という述懐に結びつくのだが、本当のところは、これもまた本人の責任ではない。

 そんな「半太郎」にも自慢話があった。

 それは外務省にいるころに、戦後の日本を導いた内閣総理大臣・吉田茂の秘書を務めたことである。吉田と連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの面談やパーティに立ち会ったこともある。歴史的な場面の片隅にいたのだ。といっても、本人の弁は次のようなものだ。

「ある会合の後で、マッカーサーがマントを羽織ろうとした。俺が後ろから着せてやろうとしたら、これが裏返しでね。マッカーサーはニヤリと笑ってくれたが、吉田のじいさんにはこっぴどく叱られたよ」

 そして、秘書といっても、目黒公邸詰めの第七公設秘書官だった、と知人に打ち明けている。正式には、秘書官の補助役で、実質は「お犬係だった」というのである。

 外交官出身の吉田は、戦後初の東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣と、続く幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣で外務大臣を務め、一九四六年五月、総理に上り詰めている。ワンマン宰相と呼ばれたが、外交こそが敗戦国日本の命運を握ると考え、一時、外相を兼務していた。

 吉田はその二年後、第二次吉田内閣を組閣すると、政治家が押しかける永田町の総理官邸ではなく、港区白金台にあるアール・デコ建築の旧朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)を借りて目黒公邸とした。建築面積が一千平方メートルを超し、鉄筋コンクリート造り二階建て(一部は三階建て)、地下一階の華麗な造りである。

 総理官邸は埃っぽく、べとべととして不衛生だ、というのがその理由とされたが、旧朝香宮の戦後の暮らし向きを案じた昭和天皇から、「借りてやってくれないか」と頼まれたようだ、と吉田の家族は書いている。貴族趣味の吉田好みの館で、居室や二階書斎などはフランス人建築家が内装し、天井は高く光にあふれて、美しい庭を抱えていた。

 一方の廣瀬は外務省に入省後、初めは会計課調達室購買係として配給品の調達を担当していた。やがて、日本を占領していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)との打ち合わせや目黒公邸で開かれるパーティで忙しくなったため、公邸への出向を命じられる。

 吉田は一九五一年九月、サンフランシスコ講和会議出席のために訪米し、土産にケアン・テリアというテリア種の犬を二匹連れ帰った。高い知能と狩猟本能を備え、吉田のように頑固な犬だった。そのつがいはサンとフラン、その子はシスコと名付けられる。

 問題は、公邸で誰がその犬のお守りをするのか、ということだった。

 廣瀬の記憶では、親犬は吉田がいるときは威張り、留守のときには机の下で小さくなっている犬だった。飼い主を見分け、使用人には時々かみつく厄介な犬だ。

 さらに面倒なことに「お犬様」をどう扱うのか、廣瀬たちが「じいさん」と呼ぶ吉田はじっと見ているのである。動物好きな宰相で、犬をどう扱うかによって人間も嗅ぎ分けられると思っているふしがあった。

「お前がやれ」

「いやいや、私はご遠慮申し上げます」

 同僚同士でお犬番を押し付け合い、結局、若い廣瀬のところにお鉢が回ってきた。

「俺はお前の世話をするために役人になったんじゃないぞ」

 犬に向かって彼はぶつぶつと不平を言ったが、どうにもならない。

 総理がいないときに腹の立つことがあり、廣瀬は机の下にいた犬を蹴飛ばした。すると、すぐ外へ逃げていき、やがて騒ぎになった。

 目黒公邸の隣は六万坪(二十ヘクタール)の広大な自然公園で、タヌキやムジナが出た。公邸の庭自体も広くて緑が深いので、闇に呑まれると捜すのが大変なのである。午後十一時ごろまでお犬様を全員で捜す羽目に陥り、

「どうして逃げ出したのか」

「とにかく見つけ出せ」

 と大問題になった。

〈私も蹴った手前責任を感じました〉と彼は書き残しているが、見つかるまでにかなり時間を要し、吉田の前に出てきた犬は足を引きずっていたと言われている。廣瀬が知人に漏らしたところによると、「お前のために大騒ぎになったんだ」とまたもや蹴飛ばしたのだという。メーデー事件、破壊活動防止法反対デモなどが続いた一九五二年、騒然とした世情にあって、出世を焦らない廣瀬は割合のんびりと生きていたのだった。

 その人生を一変させたのは、短気な吉田の「ばかやろう」の一言である。

 それは一九五三年二月二八日の衆議院予算委員会の席だった。吉田は国際情勢をめぐって、社会党代議士の西村栄一から挑発的な質問を受けているうちに激昂した。

「総理大臣は興奮しないほうがよろしい。別に興奮する必要はないじゃないか」

 西村が言い返すと、かんしゃく持ちの吉田はカッとなった。小柄だが、負けるということを考えただけでも悔しくなるという質(たち)である。

「無礼なことを言うな」

「何が無礼だ」

「無礼じゃないか」

「質問しているのに何が無礼だ。答弁できないのか、君は!」

 なおも西村に食い下がられて、とうとう吉田の口から「ばかやろう」の言葉が出てしまった。

 吉田は部下の外務事務次官や秘書官だけでなく、何かというと「ばかやろう」と悪態をつく癖があった。後になって吉田は三女の麻生和子にこう漏らしている。

「あのとき、まるでおれが、ばかやろうってどなったみたいにいわれているけれど、どなりやしなかった。人には聞こえないだろうと思ってつぶやいたのが、マイクにのってみんなに聞こえてしまっただけだよ」(『父 吉田茂』新潮文庫)

 だが、どう言い訳しても国会で発した言葉が消えるわけではない。

「国民の代表をつかまえて、ばかやろうとは何事だ」と大騒ぎになる。さらにこれが内閣不信任案に発展し、吉田はいわゆる「バカヤロー解散」に踏み切った。

 泡を食ったのは公邸の廣瀬たちである。

「じいさんのことだから、きっと議員に罵声を浴びせ、壇上からコップぐらい投げつけたのだ」

 廣瀬は確認もしないまま、ずっとそう思い込んでいた。目黒公邸の部下たちは確認どころではなく、派閥争いのあおりも食って、上を下への大騒ぎだったのである。この一言を契機に、吉田は少数与党に転落した。

 廣瀬によると、吉田に近い官僚や仕えた事務官たちは、吉田のイニシャルを取って、外務省で「Y印」と呼ばれていた。それはひとつの派閥と見なされ、「バカヤロー解散」の後、Y印は次々と在外勤務となった。干されたのである。権力者が去ると、権力の周辺にいた者が一掃されるのは珍しいことではない。むろん廣瀬もY印の一人だ。

 彼は考えた。

 ――どうも自分には役人生活は向かない。学歴もないし、キャリア採用でもないから先も見えている。お犬番はこりごりだし、複雑な派閥争いも嫌いだ。よし、これを機に外務省を去ろう。

 そして、上司に「辞職します」と宣言してしまった。その前年に結婚していたから、遊んではいられなかった。

「短気を起こすな。辞めてどうするんだ」

「新婚早々、君はどうやって食べていくのか」

 上司や同僚に止められたが、考えた末のことで、前言撤回というわけにもいかなかった。

 田舎のぼんぼん育ちのためか、廣瀬は普段、恬淡(てんたん)として優柔不断に見える。彼は借入資金課から伝票を持ってくる辻本智恵子という職員を好きになり、交際していたのだが、途中で結婚を諦めてしまっていた。外務省という職場はまだ保守的な空気に満ちていた。後年にそれは、「他人の恋愛は問わず」という、不倫や不正を許容する雰囲気に変質する。その歪(ゆが)みについては後述するが、いずれにせよ、当時は職場恋愛を育むようなところではなかったのだ。

 父は気持ちを伝えるのが下手な人でした、と長男の廣瀬史雄は言う。

「だから母親(智恵子)に対しても自分の純粋な愛情をそのまま出せなかったんじゃないですか。真面目で固く、情に厚い人です」

 だが、辻本の同僚たちはそこがわからない。優柔不断だと日出雄をなじった。

「顔は男らしいけど、廣瀬さんのやることは最低です」

「何のことですか」

「あなたは辻本さんに好意を持ちながら、ぐにゃぐにゃしていてはっきりしない。どういうわけですか」

「いや、そうじゃないんだ。安月給で、経済的に自信がないので諦めたんですよ。彼女にどこまでも苦労していくという気持ちがあれば、すぐにでも決めます」

 こんな風に女性たちに背中を押され、急転直下、結婚を決めた。

 ところが、ぐにゃぐにゃに見えたその廣瀬が、「バカヤロー解散」を機に辞職宣言をしたことで追い込まれ、背水を意識した。そこでようやく、彼の中に眠っていた商才が頭をもたげてくる。ちなみに妻となった智恵子は廣瀬の力を見抜いていたようだ。

「なぜオヤジと結婚したのか」

 と反抗期の史雄に問われ、照れ笑いを浮かべながら答えている。

「いい人はみんな戦争で死んだ。残っている人の中で経済力を考えると、お父さんだったのよ」

 商売に目覚めた廣瀬は、大蔵省や外務省のコネクションを生かさない手はない、と考える。役所の人脈だけが彼の資本である。

 最初に思いついたのは、アメリカで流行りだしていた貸しオムツ業だった。

 ――きっと商売になるだろう。でも、日本ではまだ時間がかかるかもしれない。

 明日の暮らしを考えると、日本では時期尚早だし、必ずしも役所のコネを生かすことにはならない。そしてたどりついたのが、外務省の一室で商売を起こす特殊な事業であった。

「公用品梱包運送業」――。言葉にすると簡単だが、それは外務省会計課のコネクションを最大限に生かした新規ビジネスだった。

 廣瀬が目をつけた部屋は外務省の地下一階にあった。「梱包室」と呼ばれている。そこは会計課が管理し、正式には「外務省大臣官房在外公館課購送班」と言う。外交交渉の窓口である在外公館にあらゆる備品を送り届ける部署である。秘密と言うほどではないが、関係者以外は立ち入ることのできない部屋だ。

「私の辞職をお認めいただいたうえで、在外公館の梱包輸送を任せてください」

 廣瀬は上司たちに掛け合った。自分を外務省御用達の公用品輸送業者にして、梱包室を使わせてくれというのだ。

「本当にできるのか。君はそこまで身を落とせるのかね」

 上司は驚いてそう言った。戦争に負けても、役人の官尊民卑の風潮は変わらなかった。ノンキャリアであっても外務省職員から出入り業者になるということは、一段低いところに落ちるということだった。

「やりたいです。必ずやります」

「そこまで君が考えていて、間接的にでも役所のプラスになるのだったら、いいだろう」

 そんなやりとりがあって、ようやく辞職願は受理された。円満退職は同時に、外務省に根を下ろしたビジネスの始まりを意味した。

 彼は一〇〇万円の資本金をかき集め、辞職と同時に、霞が関に近い西新橋に「朝日運輸株式会社」を設立している。「朝日のように昇っていくぞ」という思いを込めていた。

 NHKラジオの連続放送劇『君の名は』が大ヒットしていた。国民がその悲恋物語に酔う純情な時代だった。


 日本の外交は、終戦の五年後の一九五〇年から再生しつつあった。

 まず、領事関連業務を行う機関として、ニューヨークやサンフランシスコなどに「在外事務所」を設置することが認められ、業務が再開されていた。翌年、サンフランシスコ平和条約を締結すると、日本はようやく主権と外交特権を取り戻した。国際社会に復帰したのだった。

 それは占領下から脱して、GHQの指示で閉鎖されていた在外公館が各国に設置できるようになったということである。日本と国交を回復する国は急増し、旧植民地国も次々と独立するにつれて、大使館や総領事館、領事館の数も増えていった。

 すると、必要になるのが備品である。もっぱら国内で調達し、外務省の梱包室で壊れることのないよう厳重に荷造りして送り届けなければならなかった。

 調達品は食器に始まり、食料品、家具、事務用品、絵画、書画骨董などの室内装飾品、そして金庫に至るまで膨大な数に上った。

 しかも、外務省は日本を代表する最高級品ばかりを選んだ。和食器ならば、京都萬珠堂の清水焼、香蘭社の有田焼、大倉陶園やノリタケの金の縁取りをした食器といった具合だ。日本画を取っても、横山大観ら一流画家を一人ひとり訪問して制作を依頼している。

 書画の額装はもっぱら東京港区の岡村多聞堂に、ガラス製品やタンブラー等も、万国博覧会で入賞した各務クリスタル(現・カガミクリスタル)に、それぞれ依頼して、これも丁寧に梱包していた。

 当時、横浜の業者に外務省の職員を派遣して作業していたが、発注ミスが多かったという。廣瀬はそこに目を付けた。会計課調達室購買係にいたから、仕事の進め方や下請けの手配も熟知していた。

 二〇〇七年に新社長として事業の後を継いだ史雄は、「父が外務省OBで、信頼できるということがあったのでしょう」と語る。

「大使ら外交官のプライベートな荷物も運ぶわけですから、場合によっては梱包している間にいろんなものが出てくる可能性があります。他の業者だったらちょっと面白そうなものを抜いたりされるかもしれないとか、いろんな不安があるでしょう。『元外務省の廣瀬さんとこでやらせとけばそういう心配はない』ということだと思います。

 今でこそ海外で現地調達できますけど、昔は日本で食べ物から何からすべてを調達して梱包して送っていたんですね。それに、大使だとか公使という人は名家の方が多いですよね。そうすると代々続く茶道のセットとかは、それこそ二重三重、特殊梱包って言うんですが、普通の梱包じゃなくて、どこから振動があっても、耐えられるように糸で釣るような特殊な梱包をしなければならないんです」

 廣瀬の最初の大仕事は、一九五四年のサンパウロ市制四百周年記念事業であった。ブラジルはその約五十年前から日本人の移住が始まった世界最大の日系人居住地だった。この祭りを記念してサンパウロ市南部に百二十ヘクタールの広大な公園が造成され、桂離宮を模した「日本館」が建設された。日本から庭園の資材や茶道具、祭り神輿(みこし)などが次々と船積みされていった。

 この梱包事業のうまみは、業務拡大が見込まれるうえに、外務省のコネがない限り、新規参入が難しいことである。そして、外務省との随意契約が約束されていた。

 国や地方公共団体が業者と結ぶ契約は入札によることが原則である。ただし、災害など緊急の場合や少額の契約の場合、あるいは外交又は防衛上の重要機密にかかわる場合は、随意契約――つまり、役所の判断で最適と思われる相手方を任意に選んで結ぶ契約方式が認められていた。

 この公用品梱包運送事業を踏み台に、廣瀬は倉庫事業や発展途上国向けの政府開発援助物資輸送、病院用の医薬品、医療器具などの海外向け輸送、さらに外務省内の事務用品調達――と次々に手を広げていく。

 彼が「じいさん」と慕っていた吉田茂はこう話して聞かせていた。

「見ててごらん、今に立ち直るよ。かならず日本人は立ち直る」

 その言葉通り、日本は輸出立国を目指して復興の道を歩き始める。廣瀬は「ばかやろう」の一言をきっかけに、モノが海外へと流れるその風向きに気づき、霞が関から吹く風に乗ったのだ。

「私は何をやっても半人前なんですよ」

 廣瀬はその後もそう言い続けたが、梱包室から始めた一連の“外務省ビジネス”だけは「半太郎」で終わらせまい、と思っていたようだ。

 史雄はこうも話した。

「私たちは父のことを先代と呼ぶのですが、こだわりがありましたね。バカヤロー解散で無職になった。それで職に困って、とんかち一本、裸一貫で先代が始めた梱包の仕事ですから。その後いろんな仕事をやりましたが、創業のときの苦しさなんて我々には到底理解できない厳しさだったようです。カネはない、人はいない、そしてトラブルづくし。家になんて帰ってこなかった。だから、外務省の仕事は愛着がすごくあって、『とにかく、赤字になってもやれ』と言っていましたよ。それに恩義や義理に強いこだわりがあって、裏切られると火のように怒りました」

 その強いこだわりは、誰もが思いもよらない形で現れる。古巣である外務省の秘密を暴く発火点となっていった。発火するのは、外務省ビジネスを始めて四十八年後のことである。
 

(本の詳細はこちらから)

候補作一覧に戻る

TOP