立ち読み

『いつかの夏 名古屋闇サイト殺人事件』 大崎 善生(KADOKAWA刊)

第一章
アスファルトを這う花


 生温かい風が吹いている。

 いつにも増して暗い夜道だった。

 夜の十一時を過ぎたというのに、まだうだるような暑さが続いている。二〇〇七年八月二十四日、この日の名古屋は最高気温34・5度を記録していた。

 名古屋市の中心部を東西に走る地下鉄東山線の本山駅を降りた磯谷利恵(三十一歳)は、駅から自宅への二通りある道順のうち、バス通りを歩く道を選んで帰宅する途中だった。もう一本は住宅街の真ん中の急坂を登っていく道だが、そこは車の通りもあまりなく暗いので、夜の帰宅時にはいつも避けるようにしていた。バス通りは少し遠回りになるが、街灯も多く車の通りもあって、比較的明るい。しかし明るいといっても女性が一人で歩くには安全とはいえない。だから利恵は携帯で誰かと話しながら、あるいは話しているふりをしながら、少しでも危険から遠ざかる工夫をしていた。

 その日は飲み会だった。

 この夏に利恵は長年勤めた派遣先の会社を辞めることになっていて、仲の良かった同僚の女性がお別れ会を企画してくれた。夏の間はそんなお別れ会と称する飲み会が続いていた。

 本山駅は名古屋市内を東西に走る大動脈ともいえる広小路通りに面しており、この大通りはもう少し郊外へ進むと東山通りと名前を変える。広小路通りは四車線ある大きな道路で、少し先には東名高速の名古屋インターチェンジがあるなど、名古屋市内でも有数の交通量の多い幹線道路である。本山駅付近は賑やかな街並みが広小路通り沿いに広がっている。都市銀行や大型の都市型スーパー、百円ショップ、ファミリーレストラン、居酒屋チェーン店などがずらりと建ち並んでいる。電線や電柱が地中化されていることもあり洗練された街並みは、裕福さを感じさせる。学生も多いようで、塾の看板があちこちに見られる。

 地上への階段を上り、広小路通りに出た利恵は右に折れ、すぐそばの銀行の脇をすり抜けるように進み、やがて一本道のバス通りに出た。日本中どこにでもある街中の道で、中央に黄色いセンターラインが引かれた片側一車線、前からはライトを照らした対向車が来る。道路の左端に歩行者用のスペースがあるが、歩道もガードレールもない。そんな道の上を利恵は背後から来る車を気にしながら、いつものように速足で歩いていった。

 やがて左手に自由ヶ丘交番が見えてくる。

 そのとき、バス通りを向かいから一台のワンボックスカーが走ってきて擦れ違った。

 利恵は気にすることもなく小学校の角を左に折れた。そこは利恵が通っていた自由ヶ丘小学校で、左に折れるとすぐに道路を跨いで架けられた、学校の敷地をつなぐ専用の藤色の歩道橋が見えてくる。歩道橋には千種区自由ヶ丘と書かれている。小学生たちが学校の校舎からグラウンドに移動する際に、道路を渡る危険を避けるために造られた、小学生専用の歩道橋である。利恵も小学生のころに何度となく渡った橋だ。小学校を過ぎるとその先は広大な丘とその上に建つ高級住宅街が広がっている。

「今、本山駅を出て、バス通りを歩いています」

「交番が見えたよ」

「小学校を左に曲がるよ」

「今、歩道橋をくぐったので、もうすぐ家に着きます」

 利恵は交際していた男性に電話をし、状況を説明しつつ帰り道を歩くことも多かった。しかしこの日は、電話がつながらなかった。

 バス通りに出るこの小学校の角は、母親の磯谷富美子がいつも迎えに来てくれる場所だった。中学時代の塾の帰り。高校からの帰宅時。大学時代のアルバイトの帰り。そして社会人として働くようになってからも……。この角を曲がると、閑静な住宅地となり、夜は急に暗くなるという不安があったのだろう。だからここから自宅までは、母娘二人で何度となく歩いた道でもある。もちろん本山駅で待ち合わせるということも幾度となくあった。

 バス通りで擦れ違った白いワンボックスカーは、音もなく利恵の背後でUターンをする。それから後をつけながらゆっくりと走り小学校の角を左に曲がり、歩道橋の下あたりで利恵を追い越す。そこは住宅街へ続く暗い一本道で、その先は自宅の市営住宅へ続く坂道になっている。白の日産リバティは歩く利恵の一〇メートルほど先の、茶色いタイル張りのマンションの駐車場の前に停まり、エンジンを切った。場所は利恵の自宅の住所と同じ名古屋市千種区春里町、高級住宅街の真っただ中。あと五メートルも歩いて左に曲がり坂を登れば自宅に着く、しかも通っていた小学校の目の前である。

 おそらくこのとき利恵は、自分の身に迫っている危機について、何も気づいていなかった。

 マンションの前に、白い車が一台停まっている。

 エンジンは切られ、人の気配もない。

 道路の左側に停められたその車を、本能的に避けるように、利恵は右側を歩いた。それは普段通りの危機回避的な行動だった。

 車の横を通り過ぎようとしたそのとき、真っ暗だった車の右側のスライドドアが開き、巨漢がぬっと出てきた。

 一八〇センチは優に超える大柄な男。

 利恵は思わずたじろぎ、二、三歩後ずさりをする。

 利恵が通り過ぎた歩道橋のあたりに、とろとろと走り回っていたタクシーが停まっていた。それを気にしたのか男は慌てたように低い声で道を尋ねてきた。柄にもなく優しい声だった。

 なんだ道に迷ったのか、と利恵は少し安心した。と、同時に本来の親切心が心に蘇った。しかし次の瞬間のことだ。男は利恵の後ろに回り込んで即座に右手で口を塞ぐと、一切の抵抗を許さない俊敏さで、左手で腹を抱え込むようにして軽々と抱え上げた。そして一瞬にして車のスライドドアの内側に放り込むように投げ入れてしまった。

 中にはもう一人の男が待っていて利恵を押さえ込む。ドアを閉める間もなく運転席に座っていた三人目の男が車を発進させる。利恵は悲鳴を上げるが、夜の十一時過ぎ、右側は人気のない小学校で、左側は大きなマンション。その叫びが誰かに届くはずもなかった。

 この間、わずか一、二分。

 たったそれだけの時間の中で、利恵の運命は急転する。


 新聞各紙、テレビのワイドショーは、連日大々的にこの事件を報道した。

 闇サイトで仲間を募り、発作的に起こした通り魔的な犯行ということが世間の耳目を集め、マスコミ各社は情報集めに奔走し、報道合戦のような様相を呈していた。

 八月二十七日付の読売新聞朝刊は一面と三十八、三十九面で伝えている。


“名古屋市千種区で24日夜、女性が拉致され、岐阜県瑞浪市の山林で遺体で見つかった事件で、愛知県警は26日、女性の身元を名古屋市千種区春里町、契約社員磯谷利恵さん(31)と確認し、県警に電話で事件を告げた住所不定、無職川岸健治容疑者(40)と、愛知県豊明市栄町、朝日新聞のセールススタッフ神田司(36)、名古屋市東区泉、無職堀慶末(32)両容疑者を死体遺棄容疑で逮捕した。

 3人は、犯罪を行う仲間を募集するインターネットの「闇サイト」を通じて知り合い、「金を奪う目的で、通りがかりの女性を狙った。顔を見られたので殺した」と供述しており、県警は強盗殺人・死体遺棄事件として特別捜査本部を設置、強盗殺人容疑でも追及する。

 3人は25日午前4時ごろ、瑞浪市稲津町の道路脇の山林に磯谷さんの遺体を遺棄した疑い。

 調べに対し、3人は、24日午後10時ごろ、千種区の路上で、歩いて帰宅途中の磯谷さんをミニバンで拉致し、25日午前0時ごろ、愛知県愛西市の駐車場の車中で約7万円を奪った上、ハンマーで殴って殺害した、と供述。奪った金は3人で分けたという。3人は磯谷さんと面識はなかった。

 特捜本部によると、磯谷さんの着衣に乱れはなく、顔には粘着テープが巻かれ、両手首にはステンレス製の手錠がかけられていた。

 3人は、犯行直前に顔を合わせて、打ち合わせたという。川岸容疑者は「死刑になるのが怖くて県警に電話した」と話している。二〇〇七年八月二十七日 読売新聞 朝刊 社会面”


 利恵に道を聞き車に引きずり込んだのが堀慶末、車の中で待ち構え押さえ込んだのが神田司、闇サイトを利用して仲間を募りハンドルを握っていたのが川岸健治である。事件は非常に単純かつ短絡的で、インターネットでの「裏の仕事しませんか」という川岸の呼びかけに、あっという間に賛同した二人が集い、金持ちの多そうな名古屋市千種区で車を使って目星を付けながら被害者を見つけ、金を奪い殺害し遺体を山林に捨てたというものだった。

 それはある夏に起きたあまりにも凄惨な強盗殺人事件――。

 たった一夜の出来事である。

 暴漢三人に拉致されて手錠をはめられた一五五センチあまりの小柄な利恵は、しかしありとあらゆる凌辱、脅迫、暴力に耐え抜いた。最後は四十回にもわたって、鉄のハンマーで顔面や頭部を殴られるという考えられないような暴行を受ける。死因は窒息死。それは四十回のハンマーによる打撃では死に至らなかったということを意味する。顔面に打ち下ろされる三十八回目も、三十九回目も、彼女は生きていたのだ。

 契約社員のどこにでもいる小柄な一人の女性。

 性格は明るく、生真面目。お酒が好きで、食べ歩くことが趣味。

 なぜ彼女がそのような暴行に耐えられたのだろうか。

 頭をコンビニのレジ袋でくるまれ、その上からガムテープでグルグル巻きにされ、そして鉄のハンマーで頭から顔面にかけて容赦なく殴りつけられる。血が飛び散り、男たちは返り血を避けるためにTシャツを間にかざしたりした。

 誰かが脈を取り「なかなか死なねえな」と苛立つ。

 そんな凄惨な状況の車の中で利恵は言葉を発する。

「お願い、話を聞いて」

「殺さないって約束したじゃない」

 約束。

 その言葉の意味を考える。

 そしてわかることは、ひとつ。

 こんな状況の中でも磯谷利恵は必死に模索していた。

 頭をハンマーで容赦なく殴られながら。

 この状況から脱し、生き延びる方法を。

 約束――。

 その言葉こそがおそらく利恵が人生の中で最も大切にし、守らなければならないと心に決めていたものだったのではないだろうか。それを短い人生の最後に、自分の身を守るただひとつの武器として口にした。

 その言葉の、正しさ、美しさ、あるいは覚悟。

 しかし荒れ狂う凶漢たちにその思いが通じるはずもなかった。

 五分後に利恵は絶命する。

「右足が痙攣してきましたよ」

「それはよかった。じゃあ、もうすぐ死にますね」

「お疲れ様」

 これは実際に車の中で交わされた会話である。


 事件が起きた日。

 つまり二〇〇七年の夏、小椋由紀子は二十三歳だった。

 東京の大学を卒業後、地元の中日新聞社に入社し、研修期間を終えたばかりのことだ。いきなり社会部に配属され、そして最初に接したのが“名古屋OL闇サイト殺人事件”、つまり本件だった。新聞社に第一報がもたらされてからは、特設応援デスクのような場所に記者が集まり、異様な興奮状態に包まれていた。そんな中で小椋が上司から命令されたのはインターネット掲示板の監視。掲示板の中には何の根拠もないと思われる、被害者への誹謗中傷や、想像による事件現場の再現など読むに堪えない書き込みで溢れていて、それを見ているだけで本当に気持ちが悪くなった。いつもそうだがなぜこのような掲示板は被害者いじめの方向へ進む傾向があるのだろう。そんなことを思いながらそれでも一日中、掲示板を眺めていた。

 翌日には小椋は取材に出かけ、記事を書いた。


“女性拉致殺害 悔しくて、悲しくて


 悔しくて、悲しくて、涙が止まらない――。名古屋市千種区の会社員磯谷利恵さん(31)殺害事件。磯谷さんの遺体は三日ぶりに母親が待つ自宅に戻ったが、磯谷さんを知る人たちは突然の悲報に言葉を失い、やり場のない怒りに体を震わせた。一方、磯谷さんが拉致されたとみられる現場周辺では、二度と悲惨な事件を起こさないために、地元住民によるパトロールが始まった。

 磯谷さんの遺体は27日午後四時半ごろ、名古屋市千種区春里町にある市営住宅の自宅に運び込まれた。

 ひつぎは車からストレッチャーに移されて一階にある居間に。母親の富美子さん(56)は日傘で顔を隠し、親族に肩を抱きかかえられながら、ひつぎの前を歩いた。

 (中略)

 一人の女性が、通り魔的に男たちに拉致され、無残に命を奪われた事件。27日午後十時、女性がさらわれたとみられる同じ時刻、同じ現場を歩いてみた。

 最寄りの市営地下鉄自由ケ丘駅から現場までは十分もかからない。薄暗く、人けはないが、住宅や団地が並ぶ高台の道。街灯もある。一人で歩くのに不安がないとはいえないが、まさか連れ去られるなんて思いもしないだろう。

 近くに住む五十代の主婦は、「この辺では“安全な道”って言われてるんですよ。事件には全然気がつかなかった。ショックです」と話した。

 現場とみられる場所に立つと彼女の家も見える。すぐそばの団地から子どもがはしゃぐ楽しげな声や、カチャカチャと食器を片付ける音が聞こえてきた。自宅まであと百メートルほどの場所。奪われた彼女の“日常”が思い起こされ、悲しくなった。

 事件を受け、現場近くの住民たちが、夜間のパトロールを始めた。だが、彼女が男たちの車に連れ込まれたのは一瞬のことだったろう。

 もし誰か気づいていればと思うと、悔しい。そして“安全な道”で、誰にも気づかれなかったことが、怖い。(社会部・小椋由紀子)二〇〇七年八月二十八日 中日新聞 朝刊 社会面”


 利恵の自宅の最寄り駅は地下鉄名城線自由ヶ丘である。警察からの情報が少なかった事件発生直後は、拉致現場も発表されておらず、記者たちは利恵が自由ヶ丘駅を使っていたと推測して記事を書いた。自由ヶ丘は名古屋市千種区でも有数の高級住宅街であり、大学などの学校や病院も多く、丘の上には瀟洒な住宅が建ち並ぶ。駅を降りると小さなロータリーがあり、そこを左に曲がって坂を登ると、すぐに商業高校が見えてくる。タイル張りの立派な建物で、それを右手に見ながら道を歩いていくと、左手には大きなマンションや真新しい市営住宅が並んでおり、すぐに自由ヶ丘小学校に突き当たる。どこを見ても美しくて清潔で、テレビドラマにでも出てくるような街並みが広がっている。

 小学校の脇はゆるやかな下り坂になっていて、その向かい側には数軒の豪邸が見える。その奥の右手の坂の上には利恵が住んでいた白い市営住宅が三棟、建ち並んでいるのが見渡せる。おそらくこの下り坂のあたりを拉致現場と推定したのだろう。後に報道された週刊誌などの写真でも、拉致現場とされたのはこのあたりの風景が多かった。坂を下り切ると左右に走る道と交差し、そこに横断歩道がある。それを真っすぐに進めば上り坂が現れて、その右手が利恵の自宅。

 実際の拉致現場は交差する道の左側。小学校と茶色いマンションに挟まれた路上ということであった。拉致現場は犯人だけが知る重要な状況証拠となるため、正確な情報は警察によって秘匿されたのだろう。

 情緒豊かで、日本の代表的な古都という印象が濃い金沢市。しかし駅の西口の先は大通りが延びておりオフィスビルが建ち並ぶばかりの殺風景な街並が続く。飲食店や喫茶店はいっこうに見当たらず、コンビニすらも見かけない、生活感のない砂漠のようなビル街。そこを七、八分歩いていくと左手に中日新聞北陸本社ビルが見えてくる。小椋は現在ここで社会部記者として働いている。事件のときには二十三歳だった小椋も、取材当時から六年が過ぎ二十九歳。一人前の新聞記者となった。

 事件にまつわることで忘れられないことがいくつかある、と小椋は言った。

 自由ヶ丘の街を歩き、そのあまりに平和な光景、小学校や自宅までの距離を思い起こし、思わず“被害者には油断があったのではないか”と原稿に書いてしまい、それを上司に叱責されてしまったことは特に印象に残っている。

「油断といえるような状況だと思うか?」というのが上司の指摘だった。油断という言葉を使うべきではないというのはまったくその通りだと、小椋は今もこの言葉を胸に留めている。

 拉致現場や自宅、利恵が通っていたという囲碁カフェ、どこにいっても凄い数の報道陣だった。

 それでも新人記者の小椋は必死に走り回った。囲碁カフェはもちろん、利恵が自分で運営していた食べ歩きブログに出ている店を探しては一軒一軒回ったりもした。

 拉致現場近くの小学校のフェンスには花が供えられ、いつからか手書きによるこんな紙が貼り出されるようになった。

“同じ地域に住みながら、あなたを助けられなくてごめんなさい。あなたの死を無駄にせず、ここから犯罪の撲滅を発信していきます。”

 地元住民によるものだが、ショックの大きさが窺える。

 事件に接し、調べ回りながら小椋は考え続けていた。

 どうして彼女はあんなにひどい暴行に一人で耐えられたのだろう。冷静でいられたのだろう。

 自分にはとても無理だ。

「お願い殺さないで」

 その痛切な言葉が、今も胸に響いている。

 凶暴凶悪な三人の男たちに囲まれ、脅迫と暴行の限りを尽くされ、絶望的な状況の中でも懸命に生きる道を探った。それだけではない。利恵はそんな状況にあって犯人たちに罠すら仕掛けていたのである。

 凄い人だなあと思う。

 事件から六年が過ぎ、自分も被害者の年齢に近づいてきている。そして今は利恵のことを同じ女性として、心から“誇り”に思っていると小椋は涙を浮かべた。

 事件のすぐあとは、自分でも相当に気を付けたという。夜遅くにはできるだけ出歩かないようにした。いつもどこかで緊張していた。でも、最近は、金沢の街で平気で一人で飲み歩くようになってしまった。

「駄目ですね」と小椋は最後に明るく笑った。

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