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大和屋女将の語る昭和のサムライたち

(13-1)

 昭和四十年は、証券不況の嵐が吹き荒れた年である。
 阪口純久が大きな借金をして「大和屋」を新しくしたというのに、宴会の客は激減していた。そのさなか、最大の後ろ盾ともいうべき池田勇人を失なったのである。純久が絶望的な気持になったのは、無理からぬことだった。
 この当時、「大和屋」は約五十人の芸者を抱えていた。大勢の芸者衆の他に仲居が二十人近くおり、調理場には三十人近い料理人がいた。若い女将の肩には、百人を超える人間の生活がかかっていた。
 このときもし、純久に経済の仕組みがわかっていたり、算盤勘定ができていたりしたら、本当に首をくくっていたかもしれない。
「私、ほんまに呑気やってんねえ。借金の元金は返せんでも、金利だけは払えてましたやろ。火の車でも何とか回っていくやろ思てました」
 もともと純久は、一生懸命に働いてさえいれば御褒美はきっとあるはずだと考える、楽天的なところがあった。
 そして幸運なことに、このときはその通りになった。景気が徐々に回復し、大阪は万国博覧会によって、沸き立つことになったからである。

 大阪万博の開催が決まると、純久は万博を芸者の地位向上の場、晴れ舞台にしようと考えた。
 大阪市からは、四月二日が姉妹都市のサンフランシスコの日になっているので、「お祭り広場で宝恵駕籠(ほえかご)を出してくれ」といってきた。
「宝恵駕籠」は毎年正月の十日、「大和屋」で一番の売れっ妓芸者を駕籠に乗せ、街を練りながら「商売繁盛、笹持ってこい」の今宮戎神社までを往復する、ミナミの花街の恒例行事である。
「大和屋」のほかミナミの百五十人からの芸者衆に黒紋付を着せて駕籠を出すのは、かなりの物入りだが、市の頼みだから、それはまあいい。いずれにしろ、断るわけにはいかない。
 しかし、宝恵駕籠は、いってみれば縁起かつぎのお遊びである。芸者の地位向上につながるとは、いいにくい。
 純久が頭に描いていたのは、世界中からくる人たちに、芸者の磨き上げた芸を見てもらうことだった。
 万博の事務局に掛け合ったが、にべもなくはねつけられた。言葉の端々に「芸者風情が」という響きがあり、いい感じはしなかった。
 そこで「石坂のおじいちゃん」に直談判することにした。この人ならわかってくれそうな気がしたからである。
「石坂のおじいちゃん」とは――戦前から戦後にかけて、「第一生命」と「東芝」の社長を歴任し、「日本生産性本部」初代会長から、「経団連」の第二代会長を務めた石坂泰三のことである。
「財界総理」と呼ばれた石坂は、経団連名誉会長として大阪万博協会会長の座にあった。
「大和屋」には経団連会長のころから、ちょくちょくきていた。巨体に大きなゲンコツのような顔。鼻もまたゲンコツのようだった。
「そらもう泰然自若としてはって、『大人(たいじん)』いうのんは、こういう人のことをいうのやろなと思いました。お座りになっているだけで、重々しい感じがありました」
 といって、堅い一方の朴念仁というわけではない。
「一緒にこられた方が『会長、今日はお歌いにならないんですか』とおっしゃいますでしょ。そうすると、長唄を歌われるんです。『鳥羽の恋塚』なんて、ほんまにお上手で、ちゃんと先生におつきになって、きちんとお稽古をされた歌い方でした」
 昔の経営者には長唄や小唄のうまい人が多く、ダンナ芸の域を出た人も珍しくなかった。経営者として男同士のつき合いをするうえで、長唄や小唄は一種の“必修科目”になっていた。
  政治家も同じで、純久は少なくとも昭和三十年代まではそうだったような気がしている。出世していく男に、人間としての幅と余裕があったのだろう。
 石坂には茶目っ気もあった。
 鐘淵化学が女性用の鬘(かつら)を開発したときのこと。「大和屋」を贔屓にしていた社長の中司清が芸者衆に、
「お前ら、これをつけて宣伝してくれ」
 といって、鬘を配ったことがある。鬘がまだ珍しかったころである。
 あるとき、「大和屋」にきた石坂が、
「護衛の諸君には申し訳ないが、わずらわしくてかなわん。だれかわからんように、変装したいぐらいだ」
 といって、こぼした。それを聞いて純久は鬘を思い出し、芸者に持ってこさせると石坂に被せた。
「そうしましたらね、ムーミンパパみたいな顔になりはってね。それで大笑いして、『これやったら、絶対にだれかわからへんさかい、これ被って歩いてちょうだい』いいましてん。おじいちゃんは怒るどころか、ニコニコしながら、芸者衆に写真を撮らしてはりました」
 万博協会会長になったとき、石坂はすでに八十を出ていた。しかし食欲は衰えを知らなかった。食べっぷりは「健啖家」というより、「大食漢」という方が当たっていた。
 大きな仕事をする男に共通することの一つが大食で、石坂はその典型だった。純久は、食の細い大物というのには、会ったことがない。
「大和屋」の真向かいの「三玄」は、純久が父親に無断で出した三軒目の店という理由でこの名にした割烹だが、夜、石坂がふらりと立ち寄ることがある。付いてきた秘書が純久に、
「会長はお昼に肉をしっかり召し上がっています。控えめにお願いします」
 と、耳打ちをする。
 石坂の年齢を考えれば、もっともなことである。
「軽めにお作りして、お出しします。そうすると、『わしはこれだけの体をして、これからも、まだまだうごかなければならん。魚ばっかりでは、エネルギーが足らん。肉を食わせい』と、決まっておっしゃいました」
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