スカーレット・オハラ? ジュリアン・ソレル? 「それってダレよ」と言って、赤っ恥をかかないために開設された当図書館。実はネタ集めにけっこう難儀していました。簡単に言うと、知らないと言い出せなかった古傷(トラウマ)持ちが意外に少なかったこと。PR誌の編集長をしている四十代の男性が「そういうことはなかったことにして生きてきたから、思い出せないなあ」と言ったときは、妙に腑に落ちた。親戚の子が、友達とうまくいかなくなったとき、関係を修復するよりも別の人間関係を求めたほうが早いと言っていたけれど、それと似ている。ヘタにかかずらって落ち込んだりするよりも、横っ飛びして“ない”ことにしちゃう陽気なリセット人生。
いつからこういう横っ飛びが可能になったのか、つらつら考えてみるに、下地ができたのは八〇年代始め、“なんクリ”(『なんとなく、クリスタル』)あたりだったかもしれない。ヴィトンも岩波文庫も等価値だという「平場(ひらば)」の萌芽。その結果、文学や文学談議、クラシック音楽で育ったハイ・カルチャー世代と、漫画やアニメ、ロックなどで育ったサブ・カルチャー世代が平場に共存。それぞれがタコツボ化し、巣穴によって記号があるから、多すぎちゃってもうお手上げ。つまり恥ずかしがっている暇がなくなった。ちなみに一九七二年に大学に入った私は、丁度この“ハイ”世代と“サブ”世代に挟まれ、難民化した。
今世紀に入って、ネットで簡単にトラウマ除去できるようになったのも、“トラウマ知らず”の層を育成するのに役立っていると思う。この間たまたま読んだ『私と20世紀のクロニクル』(ドナルド・キーン著)に、同時に体調が悪化した御母堂(米国)と心の師(英国)を行脚するのに、前者を「あまりにも『熊野』の筋書きと一致していた」、後者を「自分が日本文学のもう一つの作品――漱石の『こころ』の筋書きをなぞっていることに気づかなかった」という比喩があって、文学作品がこういう風に典雅にからめられている文章も久しぶりだなと懐かしかった。
では、トラウマ・ネタの未来は? 人物像はブック・キャラより現実のお騒がせ事件キャラへ、キーワードは科学分野から出始めている気がする。たとえば「グーグル脳」なんて高齢者にはチンプンカンプンのはず(うちの両親に暴走老人になる体力が残っていなくてよかった)。一方私はというと、何かの本にあった“人間関係の相対性理論みたい”という表現にアタフタ。なんだ、そりゃ? しかし、魔法の呪文はある。「なんとなく分かる気がする」。そう、忙しい現代は、これで波に乗れる!
というわけで、今回が最終回です。拙文を読んで下さって、本当にありがとうございました。決めゼリフが思い浮かばなかったので、村上春樹さん訳から拝借します。「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」(レイモンド・チャンドラー著『ロング・グッドバイ』より)。
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