プロジェクトストーリー 『火花』の軌跡 −純文学作品が200万部を超えるまで−

ターニングポイント3

2015年7月16日 芥川賞受賞。
下は小学生から上は85歳まで、幅広い読者を魅了しベストセラーへ

―― そして、いよいよ運命の日、7月16日の芥川賞選考会を迎えます。当日の様子はいかがでしたか。

芥川賞受賞決定後に開かれた記者会見には、ワイドショーのレポーターなど多数の取材陣が詰めかけた 篠田 選考会の夜は緊張しましたね。私は宣伝部に詰めていたのですが、決定に時間がかかったぶん、編集者はもちろん、社全体のテンションの高まりすら伝わってきて。それまで累計は64万部に及んでいました。事前の打ち合わせでは、「芥川賞を受賞したら100万部売る」と言っていたのが、「万が一受賞を逃しても100万部売れ」といつの間にか変わっていて(笑)。私の担当である新聞広告では、さすがに100万部を目指すとなると、全国紙に15段広告、つまり一面全部を使う〝全広〟をやらないといけないと思って、準備はしていました。
 受賞が発表されると、すぐに受賞会見場の帝国ホテルに向かいました。会場は記者やレポーターでごった返していて、その場で「200万部売るぞ」という決定もあって(笑)。これは新聞だけでは到底追いつかないと思い、その場から広告会社の担当者に「すぐにテレビスポットを考えてください」と電話を掛け続けることになりました。結果的には、読売と朝日、少しおいて産経と毎日、最後に日経と、全国紙全部の15段広告はもちろん、ビジョン系や交通広告、ネット広告、少し後になりますが8月の終わりの1週間にテレビCMも大量に放映することができました。
 近年では阿川佐和子さんの『聞く力』が時間をかけて100万部に到達したことがありましたが、短期間のうちに100万部、ましてや200万部売るという経験は皆無でしたし、正直なところそんなに売れるのかと若干不安でしたね。

朝日新聞に掲載された全15段広告 竹下 そうですね。営業としても、それまでは好調な売れ行きでも、受賞を逃した場合にどう潮目が変わるか予想が出来ないという意見もあるなか、リスク承知で受賞決定当日出来で5万部の重版を手配しました。しかしいざ受賞となると、その5万部はおろか、翌週に投入した20万部も即完売。「タワー(書籍を重ねて作る塔)が一瞬で溶けました!」という書店の声を初めて聞きました。刷っても刷っても足りない。

田中 こちらが話題作りをするというよりも、むしろ「『火花』のニュースはないのか?」と世間が関心を持って聞いてきているようで。とにかく乗り遅れてはいけないとプレスリリースを出し続けて、気付けば2015年1年間で18通にもなりました。それもただ出せばいいというわけにはいかないので、今回はこういう理由で重版しますとか、現在の市場はこうなっていますとか、普段文芸作品に馴染みのない記者さんが記事にしやすく、かつ世間が欲しがるような情報を出すことを心がけました。

在庫切れで問い合わせが相次ぐなか、製本工場での工程の様子を伝えるツイートが話題に 高橋 嬉しい悲鳴でしたね。とくに受賞後はすぐに本文用紙がぎりぎりになってきて、日本製紙さんという大手メーカーに用紙を全部押さえてもらい、広島の大竹工場から東京へトラックで急送してもらってなんとかしのぎました。それもお盆が近づくと再び底が見えてきて、年数回の用紙製造を全て前倒しにして、なんとか紙を捻出した状況で……。まさかこんなスピードで重版が次々と掛かるなんて想像もつかなかった。加えて、大口製本さんという製本会社にはお盆休み返上で作業を続けていただいて。文藝春秋が関係各社とこれまで築いてきた関係性があったからこそ、うまく行ったのかなと思いました。

幅広い読者に文芸作品を届けたい

竹下 それでも単行本が売り切れてしまう店が続出しました。そのときに、芥川賞受賞作が掲載されていた月刊「文藝春秋」9月号の存在は大きかった。2004年、綿矢りささんと金原ひとみさんが芥川賞をダブル受賞したとき、作品が掲載された文藝春秋は100万部を超えた経験がありましたから、部数を食い合うことはないだろうとは予測していたのですが、今回は補完し合って相乗効果がありました。

田中 綿矢さんと金原さんのダブル受賞のとき、私は文藝春秋編集部にいたのですが、お父さんとお母さんと子どもがみんな買って家に3冊あったとか、小学生まで買ったなんて話もありました。あの分厚い文藝春秋をですよ(笑)。今回もあのときに似た状況になったのではないでしょうか。

大川 読者の年齢の幅は本当に広いですよ。下は小学生から上は85歳まで、様々な方のお手紙やお電話をいただきました。

田中 どのような内容が多いのですか?

大川 最近だと「この漢字なんて読むんですか」(笑)。「あたりめって何ですか」「オールユーニードイズラヴって何ですか」というのも。お手紙で、「読めてよかった。感動した」「人生が変わった」というようなまっすぐな感想が多かった。ふつうはこれだけ売れてしまうと批判が増えるものですが、ほとんどなかったこともかつてないことだと思います。

田中 小学生が夏休みの読書感想文に書く。うちの子どものクラスメイトでもいました。『火花』は小学生が読んでわかるのでしょうか。

大川 いや、わかるんだと思いますよ。あらゆる読者を巻き込むような作品であるということに尽きると思います。とにかく私たちは『火花』という作品と著者に惚れこんで仕事ができた。これはとても幸せなことだったと思いますね。

浅井 これまでも芸人さんがたくさんの小説を書かれてきましたが、又吉さんの作品がここまで話題になったのは、それが純文学であったことも大きいと思います。純文学に対するいわば憧れが今でもあるのだなと、嬉しくなりました。純文学はとかく難しいと思われがちですが、『火花』を読んだことでそうではないことを知って欲しいです。読者に伝えることを強く意識して書かれた作品ですから。純文学やエンタメと区分するのではなく、幅広く文芸作品を手にとってもらえたら嬉しいです。 『火花』は2015年の年間ベストセラー第1位に輝いた。又吉さん直筆のお礼メッセージ