トップ本の話PICK UP
PICK UP

曹操のなかの春秋と戦国(宮城谷昌光)
 後漢王朝の末期は、三国時代の序章といってよいが、天変地異の多さにはおどろくばかりである。
 地震、大雨、洪水などがない年はないといってよく、当然、疫病が蔓延し、飢饉が深刻となる。それらの災害は、人口と農産物の量を同時に減少させるので、国力がめだって弱くなった。宗教的な組織をもち、革命的思想を唱道した黄巾(こうきん)の賊が蜂起するまえに、各地に武力をそなえた妖賊が出現し、川あるいは山を往来して寇攘(こうじょう)をおこなったのは、天災と人災を併(あわ)せてこうむりやすい平野と都市では生きにくくなったからであり、農民が農業をあきらめたために流民の数が激増して、新興宗教に救いを求めるか、盗賊になるか、しかなかったからである。定住民が半減するような事態では、税制度が機能しなくなったので、地方行政府の長官は残留の民に重税を課して怨嗟の的(まと)となり、その声がおのずと中央政府にむけられた。王朝の威信は失墜せざるをえなくなった。中央政府の弱体化にともない、いままで王朝に服従してきた異民族が、搾取(さくしゅ)の対象にされることを嫌い、叛乱を起こした。こうなると全土に、妖賊の横行、民衆の蜂起、新興宗教の恣暴(しぼう)、異民族の叛乱などがあり、かれらに県が襲われて一朝一夕に全滅するという最悪の事態が生ずるようになると、文官でも武器を執って戦わねばならなくなった。また、兵数と兵糧が衍(ゆた)かではない官軍が、遠征して叛乱者を鎮圧しなければならないので、将と兵の質が問われることとなった。
 そういう不安定な世情が、思考の自己鍛練をさせてくれる歴史書や兵法書を人々に読ませたといえる。後漢王朝期では、官吏になろうとする人は、孝廉(こうれん、孝行で廉清な人)、に推挙されると上級であるとみなされるので、『論語』よりもむしろ『孝経(こうきょう)』を読んでおけばよい、という読書の偏重があった。ところがそういう倫理書が意義を失うような乱世になると、『春秋左氏伝』ブームが生じた。『春秋左氏伝』は倫理書であるというより、歴史解説書であり、さらにいえば歴史説話集である。内容のおもしろさは抜群なので、紙の普及もあって、人々にこぞって読まれた。もはや体制にもたれかかっては生きてはゆけないという官民の危機意識が、精神を自立させ、読む物をえらばせたといえる。
 曹操は孝廉に推挙されて官僚予備というべき郎(ろう)となったが、儒教関係の書物に読書の対象をしぼらず、ひろく多くの書物を読んだ。とくに兵法を好んだので、兵法書をのこらず読み、ついには兵法諸家の選集をみずからつくって『接要(せつよう)』と名づけたと、『異同雑語(いどうぞうご)』<『三国志』裴松之(はいしょうし)の注>にある。曹操はおもてむきは名家の子弟であるが、父は宦官の養子であり、家の富貴は祖父がつくった。そこに曹操の劣等意識があった。王朝が秕政(ひせい)をおこなったことは、つまるところ皇帝が悪政をおこなったことにほかならないが、世の批判は皇帝の私人(しじん)である宦官に集中した。宦官が悪政の元凶であるとみなされたのである。その目にさらされた曹操は、あえて奇矯(ききょう)をおこなったが、名士とよばれる人々には黙殺された。世論を動かしているのは、その名士なのである。儒教的衣装をまとった名士の虚実を洞察することが曹操の精神の方向をさだめたといってよく、名士にたいする曹操は弱者の立場にあった。『老子』のなかに、
 ――反(はん)は道の動(どう)、弱は(じゃく)道の用(よう)。
 ということばがある。反(かえ)るということが道の動きであり、弱いということが道のはたらきである、というわけであるが、曹操の精神のありようは、まさしくそれであったにちがいない。
 大将軍の何進(かしん)を佐(たす)けた袁紹(えんしょう)は、宦官を全滅させるために西方にいた董卓(とうたく)を招いて、その武力を利用しようとした。それが大失策であったことは、董卓が洛陽に乗り込んできてからあきらかになるが、そのまえに宦官をみな殺しにした袁紹は、盛名の人となった。
 ――魑魅(ちみ)を殺すのに魍魎(もうりょう)をつかったようなものではないか。
 曹操はそうおもったであろう。董卓の暴政がすさまじくなると、洛陽を脱出した曹操は、董卓を打倒すべく挙兵した。袁紹も地方へ転出したが、挙兵しても董卓軍を恐れて戦わなかった。が、曹操は敢然と戦ったのである。その後、曹操は東郡太守となった。そのころから曹操の実力が発揮されはじめた。東武陽(とうぶよう)というところに政庁を置いた曹操が、そこをでて頓丘(とんきゅう)に布陣するということがあった。すると黒山(こくざん)を本拠とする賊が、東武陽を攻めた。曹操の属将たちは、
「救助に引き返しましょう」
 と、口をそろえていった。が、曹操はうなずかず、兵馬を黒山にむけて賊の本拠を衝(つ)いた。東武陽を攻めていた賊は報せにおどろいて包囲を解き、引き返した。それを曹操は急撃して大きな勝ちを得た。そういう策戦について曹操は、
「孫【月+賓】(そんぴん)は趙(ちょう)を救うために、魏(ぎ)を攻めた」
 と、諸将にさとした。孫【月+賓】は孫武(そんぶ)の子孫で、孫子の兵法を天下に知らしめた天才軍略家である。戦国時代の斉(せい)の威(い)王に仕え、田忌(でんき)将軍を佐(たす)けて、斉に大勝利をもたらした人である。魏軍に包囲された趙(ちょう)の邯鄲(かんたん)を救うために斉軍の軍師となった孫【月+賓】は、趙へゆかず、魏の首都を衝こうとしたので、邯鄲を囲んでいた魏軍はあわてて引き揚げた。孫【月+賓】はその軍を大破した。そのことは『史記』の「孫子呉起列伝」に記されている。曹操はそれを実戦に応用したのである。『三国志』のおもしろさは、英雄たちの行動と思想のうしろにあるものを視ることのほかに、対照の妙を知ることにある。のちに曹操は、官渡(かんと)という地で、袁紹と一大決戦をおこなった。この数か月もの会戦の勝敗をわけたのは、袁紹がおなじように孫【月+賓】兵法を採用したことによる。すなわち、袁紹の本営から四十里ほどはなれたところにある軍が、曹操の軍に急襲されたことを知った袁紹は、救援の兵を送ることより曹操の本営を衝くことを選んだ。が、それは大失敗におわり、袁紹軍は崩壊した。孫【月+賓】兵法を形だけまねても成功しないという実例がそれである。
 曹操が皇帝である献(けん)帝を迎立したのは、『春秋左氏伝』にある重耳(ちょうじ)<晋(しん)の文(ぶん)公>が衰弱した周王室を輔(たす)けて晋を盛大にした故事が頭にあったからであろう。献帝はあの董卓に擁立された天子であるので、董卓打倒を叫んで立ちあがった群雄は、献帝を助けるという発想をもたなかった。袁紹は最初から献帝を否定し、袁術(えんじゅつ)は晩年に天子を僭称(せんしょう)した。しかし重耳が生きていたころの周王室も、内訌がつづいて、やけどをすることを恐れる諸侯はたれも手をださなかった。が、重耳はあえて軍を発してその内訌を鎮めた。その賢明さと勇気を曹操はみならったのである。
 むろん曹操は孔子の思想をおろそかにしたわけではない。袁氏を逐(お)って冀(き)州の平定をはたした曹操は布告のなかに、

 国を有(たも)ち家を有つ者は、寡(すく)なきを患(うれ)えずして、均(ひと)しからざるを患え、貧しきを患えずして、安からざるを患う。

 という『論語』の一文をふくませた。国を治め家を保つ者は、力と数が少ないことを心配せず、公平でないことを心配し、貧しいことを心配せず、安定しないことを心配する、ということである。曹操は死ぬまで天子の位に登らなかった。そのありようは、殷(いん)の紂(ちゅう)王にたいする周の文王にたとえられる。曹操の真情は、赤壁(せきへき)の戦いが終わったあとの布告にもあらわれている。そのなかにあらわれる楽毅(がっき)、介子推(かいしすい)、申包胥(しんぽうしょ)などの名臣は曹操の胸のなかで生きつづけた人なのであろう。
本の話最新号目次
バックナンバー
PICK UP
自著を語る
私はこう読んだ
完結連載
東京・食のお作法
酒屋に一里 本屋に三里
虎馬圖書館
大和屋女将の語る
昭和のサムライたち
読書エッセイ
よせてはかえす恋の波
湯けむり読書日記