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――昭和二十一年元日の「人間宣言」で天皇は「五箇条の御誓文」を引用します。そして侍従次長だった木下道雄に、「自分が一番いいたかったのは天皇は神ではないということではなく、五箇条の御誓文だった」と言いますが、あのへんも微妙ですね。天皇にとって一番大事だったものはなんだったんでしょうか。国民なのか、皇祖皇宗、皇室の祖先なのか。
保阪 自分が「皇祖皇宗」に尽くすことが、結局は国民のためになる。そういうロジックなのだと思います。また、終戦後すぐに皇太子(今上天皇)へ宛てた手紙で「戦争を止めたのは臣民の種を残すため」と言っています。天皇は臣民がいて初めて存在するということでしょうが、このロジックもやはり僕らとは全く違う君主独自のものだということです。
「僕の歴史研究の先生は石井秋穂さんです」
――保阪さんはおそらく千人以上の昭和史の証言者たちにお会いになって貴重な証言を記録され、またその人たちが残している資料を目にされた。その証言者の中で、一番印象に残ったのはどなたですか。
保阪 陸軍省軍務局軍務課高級課員だった石井秋穂さんですね。昭和十六年の四月から始まる日米交渉の担当者です。当時の陸軍省のプランの起案は、東條英機、武藤章、佐藤賢了に命じられて彼がおこなった。陸士三十四期ですから、当時、三十九か四十歳です。この人を偉いなあと思ったのは、戦後は宇部で晴耕雨読の百姓生活をしていること。きっぱりと引退しています。石井さんと陸士同期で東條の秘書官だった赤松貞雄、あるいは石井さんと同じような立場にいた服部卓四郎、西浦進などは、みんな戦後、GHQや自衛隊、民間企業などに行ったりしてますが、彼は晴耕雨読、一切の名利を求めませんでした。来る人は拒んでいたわけではないんですが、昭和史の研究者なんかもまだ誰も彼のところへ行っていなかった。そこに昭和四十年代の終わり、僕が三十代のころに訪ねました。石井さんは七十過ぎでした。それから十年以上にわたって二百通ぐらいの手紙をかわしました。耳が遠いから電話ではダメだと言って、全部手紙です。それが僕の昭和史の勉強だった。
会ったのは四、五回ですが、宇部のお宅はほんとに粗末な家で、夏の冷房は扇風機です。それで、戦争の話をするときは正座する。そして、「あなたに聞かれたことには正確に全部答えます」と言って、自分が陸軍省で起案したときの心情をきちっと語り、その後で、「ここからは私が戦後、知ったことです」とはっきりと分けて話す。戦後もアメリカから資料を取り寄せたりして、考え続けていたんですね。彼は農家の五男です。山口県では在郷軍人会が網の目のように出来ていて、山の中に秀才の少年がいると引っ張り上げて、陸軍幼年学校へ入れる。陸軍の長州閥を維持する方策でもありますが、自分はそれで軍人になれたと言っていました。
石井さんは昭和十六年七月二日、南部仏印進駐をやるかどうかについての案を東條に言われて起案するんですが、そこに「対英米戦を辞せず」という一句を入れた。その話を聞いたとき、たまたまその場に石井さんの奥さんがいて、「それよねえ。それがあるから、あなたは辛いでしょう」と言ったら、彼はやっぱり辛い、と言っていましたよ。
その後も石井さんのような人を何人か知りました。大本営参謀だった堀栄三さん(陸軍少佐)や、井本熊男さん(陸軍大佐)もどっちかといえばそうでした。そういう人を知ることによって、そうか、陸軍にも彼らなりに納得できる論理やシステムを求めていた軍人がいたんだ、そこはきっちり探ってやろう、だけど批判は批判としてしよう、と思った。
石井さんは晩年、九十幾つで川崎の老人ホームに入られた。あるとき老人ホームから電話があって、「保阪さん、来てください。石井さんは何かあなたに言いたいことがある。しきりにあなたの名前を言う」と言われました。僕、行こう行こうと思ったのに行けなくて、そのうち亡くなられた。僕は「軍事のことは誰に学んだのですか」と聞かれると、「石井秋穂さんからです」と答えます。僕は石井さんの弟子です、と。天皇の側近などにも何人か会いましたが、石井秋穂にかなう人はいなかったという思いがあります。
「天皇と共産主義とアメリカ」について考えていきたい
――では、もう一度天皇の話に戻りましょう。
保阪 先ほどマッカーサーと天皇が十一回会って闘ったという話をしましたが、そのうち会見の内容が公開されているのは一部で、全体は公表されていない。食糧の援助を要求したとか、沖縄は一定期間占領してもいいと言ったとか、断片的な天皇の発言は伝わっていますが、全体はわからない。しかし、わずかな情報を整理すると、天皇は二つのことを言っています。一つは、国民を飢えさせないでくれ、国民の生活を守るために食糧が欲しい、ということ。それからもう一つは、占領している間、日本の防衛はあなたたちが責任を負え、ということです。食べ物と防衛ですね。この二つをきちんとやってほしい、と言っている。日本を守るための具体策もたぶん話していると思います。これに対してマッカーサーは「カリフォルニアを守るがごとく、あなたたちを守る」と。
この背景にあるのは共産主義への恐怖ですね。食糧をよこし、ちゃんと守ってくれなければ、日本は共産主義になる、革命が起こると暗に言っている。天皇にとって共産主義は、僕らが考える以上に怖いものだったと思う。でも僕は、天皇が怖いという共産主義って何だろうと考える。たしかに戦後すぐの一時期、共産党は威勢がよかったけど、それがすぐに革命に結びついたとは思えない。ところが、これに対する病的といっていいほどの恐怖感が、戦前から天皇を始めとした宮中には一貫してある。たとえば、天皇は満洲に神社をつくることに対して消極的ですね。他国の中に神社までつくって、天皇を神格化するようなことを教える必要はない、という思いがあったんじゃないか。そんなことをすれば、共産主義とナマでぶつかることになりかねないとの懸念……。資料はありませんが、天皇は実は共産主義をかなり勉強したんじゃないか。その内容が何かで分かればと思うのですが。
――天皇とアメリカについて、もう少しありませんか。
保阪 「東京裁判」では、マッカーサーは天皇を裁かなかった。その意味では天皇は勝ったわけです。しかし、アメリカの本当の怖さを天皇は確認していないと思うんですよ。「マキャベリスト」天皇でさえもアメリカの国務省が持っている冷徹な打算、戦略を見ていない。天皇は昭和五十年、アメリカへ行ったときも、「私は前から一言言いたかった。アメリカにあのとき助けてもらった。特に食糧は云々」と言います。相変わらず食糧と防衛なんです。だから、天皇はアメリカの掌で踊ったとアメリカ人は言うわけです。そして、アメリカが民主主義と市民社会の諸権利をこの国に植えつけたとき、最終的にどうなるかを想像する余裕はなかった。つまり、君主制下の民主主義には成功したけど、これが引っ繰り返って、民主主義下の君主制になるとは想像だにしなかったと思う。つまり、天皇はマッカーサーにあの時期には勝ったんだけど、歴史の中で誤算があったと僕は思う。それは天皇がアメリカの怖さを知らなかったからではないだろうか。
だから、民間から美智子妃が入り民主主義下の天皇制にかわっていくとわかったとき、天皇は当初はとまどったと思うんですよ。ああー、こういうふうになるのかと、天皇は考えたんじゃないでしょうか。天皇は言いませんでしたが、香淳皇后は美智子妃に嫌がらせをしていますね。そのことは入江相政が日記に書いています。天皇は、次代は結局、皇太子に託す以外にない、天皇制のあり方とはそういうものだと分かっていたからだと思います。
――では締めくくりとして、今後のお仕事についての抱負をお聞かせください。
保阪 やはりひとつは昭和天皇ですね。昭和聖徳記念財団の機関誌に連載したものをまとめて二〇〇五年『昭和天皇』を出しましたが、まだやり切った感じがしていないのです。それから二番目には、そのあとの現代史、これに挑戦していきたい。あとは自分史と家族史。自分史についてはまあいいとしても、保阪の姓の一族はもともと加賀前田藩の支藩で、いまの群馬県にあった七日市藩の家老の家で、幕末にはきわめてヌエ的に振舞っていた。父親の話では、お家騒動があったのではないか、と。この一族の話が僕の歴史研究の心の原点にあるような気がしています。それと関連しますが、母方は北海道に屯田兵で入植してきて僕が生まれるわけですが、屯田兵の歴史も含めた北海道物語、これを書いてみたい。この五つということになりますが、まあどれも、やはり天皇というテーマにはつながっていくような気がしています。僕たちの世代に課せられたテーマだと思います。 |
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