 |

 |
 |
 |
――今回の『Op.(オペレーション)ローズダスト』は、お台場を中心とした臨海副都心が舞台ですね。
福井 下町育ちの僕から見ると、あの街は道端に自動販売機もないし、ひょいと入れるような店もない。人がそこに暮らしているという生活実感みたいなものが希薄なんですね。娯楽施設や住空間、職場がポイントごとにありますが、それを結ぶのは純然たる「道」。まるで情報回路の結節点みたいな感じでしょう。人間がここまでかっちり区分けされ、押し込められて生活して果たして幸せなんでしょうか。こんなセル的な環境で暮らしていると、まず、他者を自分と同じ人間だと捉える機能が低下しはじめると思うんです。目の前でお年寄りが転ぶのを見ても、「倒れるのもあの人の人生だから」と割り切ってしまう人も出てくるんじゃないかとね。でも、実際に大災害やテロが起こったとしたら、人間というものは、倒れている人に、とっさに手を差し伸べてしまう生き物なんですよ。大惨事のニュースを横目で見ながら2ちゃんねるに書き込みを続ける人間も少しはいるでしょうが、そんなことを続けていたって楽しくない。それよりも、「俺も助けに行ってみるか」って行動するほうがずっと気持ちがいいはずなんです。
この「気持ちがいい」という考え方が意外となかったんですね。立派だとか正しいとかいうんじゃなく、自分の体で「気持ちがいい」とか「すっきりする」と感じることができるようになればいい。そういう環境をつくるにはどうすればいいかと考えたときに、あの臨海副都心という場所が物語の舞台にふさわしいのではないかという気がしたんです。
――臨海副都心のような典型的な都市型の街に限らず、古い町並みが残る日本の地方都市であっても、現代人の心は、同じように他者と隔てられつつあるような気がします。
福井 そうですね。最近の二十代前後の人たちを見ていて驚くのは、例えば友人との約束に遅れそうなときに、「何分遅れます」ってメールを打っている。そんなの、電話すりゃいいじゃんって僕は思うけど、電話をかけるのはルール違反らしいんです。むやみに他人との敷居を高くして、同時に自分の側にも無意識のバリヤーを築いている。そうやって、お互いに自分の周囲の壁を必死に高くして、その壁の中でみんな寂しがっている。これは、今回の主人公の一人、自衛隊員の丹原朋希(たんばらともき)とも重なる感覚です。
朋希は、過去のある事件をきっかけとして、周囲から隔絶された生活をしてきたので、例えば人の寝息が聞こえるような環境がいかに自分に安心感をもたらすかということを知らずに生きてきた。これは今の若者たちにも言えることだと思います。十歳くらいから個室を与えられて、家庭の中でも孤立して暮らしている。確かにアメリカなどでは赤ん坊の頃から親と違う寝室で寝かせたりしますが、あの国には、例えば夏にキャンプに参加しなければいけないというような、自立のための試練、パブリックな仕組みが整っているんです。しかし、日本には残念ながらそんな仕組みはありません。自分の部屋でインターネットを使って何となく世界を知ったような錯覚を覚えてしまうけれど、それはただ知りたいことを知ったにすぎないんですよ。知りたいことも、知りたくないことも受けとめて、それをどう自分の中で仕分けするかというところではじめて成長があるはずなのに……。やっぱり、どこかで歪(いびつ)さを抱えてしまう可能性がありますね。しまいには、「これまで不幸がなさすぎたのがいけない」なんて言い出したり(笑)。そんな、いわゆる引きこもりやニート的な人、人生を生きあぐねている人にも、僕の作品を読んで、「外に出ると、意外と楽しいかもしれないな」と思ってもらえるとうれしいですね。
――これまでの作品と今回の『Op.ローズダスト』とのいちばんの違いは何でしょうか?
福井 『亡国のイージス』や『終戦のローレライ』にあった、国や公の力によって物事をねじ伏せようとする存在に対して、若者が「否」を唱えて無条件に抵抗するという基本ラインは共通しています。ただ、これまでと大きく違うのは、反乱自衛官であったり、「国家としての切腹」を目論む日本軍人であったりという、極端に戯画化されたような「悪役」が、今回は存在しないということですね。
悪役をガン細胞にたとえるなら、現代の日本においては、ガンはもはや全体に蔓延しているという気がするんです。つまり、この日本の空気そのものが「悪役」になり得る。物語では、ネット財閥の会長が一見「悪役」のように見えるかもしれませんが、実際には彼は総合意識の集積体のような存在でしかない。彼の政治的で過激な発言というのは、実は僕たちみんなの心の中に埋め込まれているものかもしれないんです。
例えば、日本の週刊誌に「北朝鮮がいかに悪辣な国家か」みたいな記事が安易に出たりするんですが、ああいう体制の国に対してそんな書き方をするのは、ほとんど「宣戦布告」に等しい行為だということがわかっていないのではないか。書き手にそんな意図がなくても、公共の出版物として出てしまうと、物事はそれによって動いてしまう危険性があるんです。どうも我々日本人は、かつて武器を遠ざけなければならなくなった過去を持ち、その上に「今」があるんだという認識をすっかり忘れてしまっている節がある。
もしも今、北朝鮮がミサイルを撃ち込んできて、それが日本の都市部に落ちたとしたら、世論はどう反応するでしょう。下手をすると、即座に相手を全滅させろなんて話になるかもしれない。二十一世紀になって明確にわかったのは、平和ボケの一番の弊害は簡単に「右に振り切れてしまう」危険性がある点です。平和が脅かされたときや、恐ろしいことが目の前に迫っているときこそ、六十年間、平和ボケで来た日本人の胆力が問われるはずなのに。
――そんな平和ボケの日本で、福井作品はどのような人々に読まれているのでしょうか?
福井 僕の読者層は二分化していて、まずは二十代までの、アニメ、ゲーム、コミック、小説、映画などが全部並列しているような人たちですね。『亡国のイージス』を出したときは、「女人禁制」のような印象を持たれるのではないかと心配しましたが、実際にはこの世代の若い女性ファンから火がついたんです。
一方、僕と同世代の人にとって、読書とは単に面白い小説を読むだけではだめで、読み終わった後にちょっと頭がよくなったように錯覚できることが肝心なんです。サラリーマンが経済小説や情報小説を読むように、小説は、つらい思いをしないで勉強ができるツールとして存在しているんですね。では、そういう層に小説を読ませるにはどうすればいいか。つまり、「十年前の俺」をお客さんとして想定して、本の面構えとか帯のコピーも含めて本作りをしています。ですから、ストーリーを構築していく最初の段階から、帯に書くポイントはどういうことなのか、ということを無意識のうちに設定していますね。結果として、三十代から四十代の男性読者が圧倒的に支持してくれるようになりました。この世代の男性たちは、今まで小説を読みたい気持ちはあっても、何を読んでいいのかわからなかったらしいんです。そんな彼らが、自分の嗜好に合うものがようやく見つかった、と僕の小説のことを言ってくれている。「十年前の俺」をお客さんにして、間違いはなかったと思いました。 |
 |
 |
 |
 |
|
 |
|
 |