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――『ありふれた風景画』は、高校二年生の高遠琉璃(たかとおるり)と、彼女の一年先輩の綾目周子(あやめしゅうこ)という二人の少女を中心に物語が展開していきます。
あさの 私は、自分にとって「この人だ」という人間に出会えたとき、その人の世界が一変すると思っているんです。同性でも異性でもいいし、十七歳でも十三歳でも、六十歳のときでもいいんですが、とにかくその出会いによって世界が反転するところ、くるりと変わるところを書きたかったんですね。琉璃が抱えてきた苦しみとかこだわり、怯えや恐れが、誰かと出会うことによって別なものに変わる――消えるのではなくて、これも自分自身なんだと気づき、自分の一部となっていく、そのプロセスを書きたかったし、またそういうものこそが、人を恋(こ)うるということ、恋愛ということなんだろうという認識があったんです。だから、異性か同性かというところにはあまりこだわりがなかったですね。
――周子は非常に個性的で強烈なキャラクターの少女で、鴉をはじめとして、動物や自然の声を聴くというか、感じることができるんですね。
あさの これは『ありふれた風景画』というタイトルとも大きく関わってくることなんです。他人と明らかに違う能力を持った人がいて、でもその能力によって何か事件が起こるとか、物語が大きく動くということではなくて、その人のごく普通の日常を書こうと思ったんです。そのありふれた日常そのものが、実はものすごくドラマチックなんだということ、例えば一緒に歩くとか、手をつなぐとか、泣いたり笑ったりするような日常こそが、ほんとうはドラマチックなんだよという、そんな思いを込めたタイトルなんですよ。
私は感応する力に強い憧れがあるんですね。岡山の田舎で暮らしていますから、よく山の中を一人で歩いたりするんですが、何か人ならぬものに感応していく自分というものを感じることがあるんです。テレパシーとか特殊能力というほどではなくて、「あ、何かがいる。この風景の中に私とは違う存在がいる」と感じる。そういう自分の感覚を投影してみたかったというのもあるし、そんな能力があろうとなかろうと、彼女たちは普通の日常の中で人を愛してじたばたしているんだということも書いてみたかった。
物語として最初に浮かんだのは琉璃のほうです。火のような激しさを持ちながら、ものすごく臆病で、「私は人とは違うんじゃないか」とあたふたしている若い魂です。そして、そんな彼女を受け止めるにはどうすればいいかと考えたとき、熱い炎を緩やかに受け止めるとすれば、水のようなものかなあ、と思ったんですね。緩やかに流れる川というか、おおらかな自然のイメージです。だから周子は、同性から「好きだ」と言われても水の流れのように自然に受け止めることができたんです。
――たしかに周子は、琉璃の心を受け止めてくれる懐の深い存在なのですが、しかし物語の終盤には、思いがけない激しい一面を見せますよね。
あさの あの周子は私にも意外でした(笑)。周子にはずっと母的な自然のイメージを持っていたんですが、最後に来て、あれほど強権的な強さというか、激しさを出すなんて、書いていて自分で驚いたくらいです。ある意味、火の琉璃よりも激しいし、琉璃のように戸惑ったり躊躇したり怯えたりしない分だけ怖いなあとも思いました。もしかしたらこの人は、人を殺せる人かもしれない、琉璃さえも殺してしまうかもしれない、と。
「いい大人」が出てこない物語
――物語の舞台は、地方の中くらいのレベルの高校ですね。これは『ガールズ・ブルー』でも書かれていたことですが、地方というのは、高校の制服によって、あの制服の高校は偏差値がどのくらいだとか、あれはあんまり柄のよくない学校だとか、瞬間的に判断されてしまうというところがあります。その制服を着ているだけで、例えば売春をしているとか、万引きをしそうだ、みたいな固定観念を持たれてしまうというような……。
あさの 地方には制服による差別、学歴による差別というものが根強くありますね。その残酷さは身にしみて知っているし、私自身が選別する側に回ったことも何度もあります。
『ありふれた風景画』や『ガールズ・ブルー』で書きたかったのは、そういう大人の思惑や固定観念を吹き飛ばすだけのエネルギーを、子供たちは持っているんだということなんです。ごく普通の少年少女が、既成の概念からはずれていく、つき破っていくところを書きたいし、また、そんなエネルギーやパワーを、私は男の子よりも女の子のほうにより強く感じるんですね。少年というのは、脆くて、誰かがいないと生きていけない気がするんですが、少女はたとえ相手がいなくても、自分の足で立って前に突き進んでいくというパワーを持っていて、閉塞的な世界の中でアップアップしながらも、その壁をばりばりとぶち破って広げていくエネルギーを持っていると思うんです。
――琉璃の家族は、父親が医者で母親は専業主婦、それから美人の姉もいて、世間的にはきちんとした家庭というふうに見えます。しかし、実際は両親が非常に揺れているというか、問題を抱えた大人たちですよね。
あさの 私の物語には「いい大人が出てこない」ってよく言われます(笑)。子供の手本となるような大人、こうなりたいと思わせてくれるような大人がなかなか書けなくて。子供に対して支配者だったり、大人自身が非常に揺れていたり、また、揺れる無様な姿を自分では意図せずに子供にも見せてしまうような、岡山弁で「だらず」って言うんですが、だらしない、どうしようもない大人です。社会的に見ればちゃんとした職業に就いていて、べつに破綻しているわけでもないんだけど、どうしようもなく崩れていて子供によりかからざるをえない、そんな大人像というのは、私も含めてみんなにもあるんじゃないかな。
――だから、琉璃と親との関係、あるいは姉の綺羅との関わり方も、一筋縄ではいかないというか、さまざまなすれ違いや問題が起こります。
あさの 親子関係やきょうだいの関係って一括りにされてしまうことが多いんですね。お姉ちゃんには厳しく妹には甘いとか、三人姉妹の真ん中だからこういう性格だろうとか。でも、親子もきょうだいもやっぱり人間関係なんですよ。子供が十人いようが二十人いようが、その子と親とを結ぶ関係というのは、ただ一つの、一対一のものだから、形は違うし、そこに生じる愛情も問題も当然違うものになるはずです。だから、母親は母親としてだけでなく、女として、中年として、一人の人間として捉えざるをえないし、琉璃だって十七歳の女子高校生というだけじゃなくて、少女として、女として、人間として捉えるべきです。琉璃と綺羅にしても、単なる姉と妹というだけではなく、二人の人間の個性からどういう関係が生まれるのかを考えなければいけないんですね。そのあたりを横糸として丹念に拾い上げることによって、物語がより色鮮やかに織りあがるんだろうと思います。 |
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