――資料調べが重要なのはお話をうかがっていてもよくわかりますが、同時にたいへんな労力のかかる作業ですね。
田中 中国の正史は紀伝体で書かれていますから、一つの出来事に複数の人が関わっている場合、その全員の伝記を読んで照合しないと全体像がわかりません。Aという人物の伝記にはAが関わったことしか書いていませんし、Bの伝記にはBの発言しか書かれていない。例えば蘭陵王の業績についても、七章でとりあげた河東之役については、段韶(だんしょう)という老将軍の伝記のほうにくわしく書かれています。蘭陵王の伝記だけ読んでいたのではとても全体像はつかめません。
だから全ての伝記を読まなければならないのですが、そうしているうちにだんだん全体像が立体的に浮び上がってくるのが楽しいんです。これは小説家ならではの楽しみですね。こんなに苦労したのだからこの楽しみは自分一人のものだ(笑)という思いはあります。書き終えてくたくたに疲れましたが、この充実感を一度味わってしまうとやめられません。
それでも正史だけですと、ある事件が起きたときAはこうしたと書かれているのに、そもそもその事件がいつ起こったか、またそのときAが何歳だったかということもいちいち確かめないといけないのですが、そんなとき便利なのが『資治通鑑(しじつがん)』です。これは編年体で書かれているので、いくつか書き並べた紀伝体の記述を『資治通鑑』で確認すると、そこで統合できるので、ありがたいですね。
小説を書く楽しみは、そうやって獲得した歴史の大枠のなかで、最大限に法螺(ほら)を吹くことでしょうか。事実だけ羅列しても十分面白いんですけど、この場面にこの人物がいたらもっと面白くなるはずだと思ったときには、史料を調べて絶対そこにいなかったと記されていなければ、書いてしまうというような一種の開き直り(笑)も必要だと思っています。また他人の伝記にちょっと顔を出すだけの人物を拾い上げて、出番を増やしていくのも楽しいですね。
魏晋南北朝という時代
――どの場面も細部まで書き込まれていて、眼前に主人公たちの姿が浮び上がってくるようです。
田中 いつも映像的に臨場感溢れるように書きたいなと思っています。とくに食事のシーンは、例えば椅子に座っていたか座布団のようなものを敷いて座っていたのかとか、どういう料理を作って食べていたのかとか、その時代の人々の生活のリアリティを出すのに効果的なので、意識的に書くようにしています。中国料理史に関する資料もありますが、こういったことでは民間の小説や随筆のなかの記述が重要です。「今日○○を食べた」なんて書いてあると、ああなるほどと思うわけです。今回の執筆では『顔氏家訓』という随筆がおおいに役に立ちました。もともと南朝出身で北に拉致された人物が書いているので、北朝と南朝の生活習慣や食べ物の違いなどが細かく書いてあります。これによると、北朝では女性が馬に乗るのは普通のことだと書かれているので、月琴が武装して馬に乗ってもおかしくないことになります。正史で拾いあげることができない情報は、こうした書物から補完していくわけです。またべつに資料にするつもりで読んだわけでもない本に、びっくりするような記述があったりします。銅雀台(どうじゃくだい)に関することは、美術史の本に一番くわしく書いてありましたしね。
――この小説の舞台になっている魏晋南北朝時代について簡単に説明していただけますか。
田中 専門家でもないのに僭越(せんえつ)ですが(笑)、ちょうど魏の時代に卑弥呼の名前が出てきて、南北朝時代の末期が、蘇我氏が覇権を確立する時期、日本が古代国家として成立するころです。この間中国では晋が一時的に天下を統一しますが、一世代しかもたない。エネルギーが遠心的に働いて、なかなか統一の方向に向かわなかった分裂混沌の時代だと思います。
一方でこの時代は融合の時代でもあります。もともと北朝は騎馬遊牧民が中華の地に侵入してできた王朝ですが、彼らは文化的にも血統的にも漢民族と融合していきます。そのなかで大きな力となったのが漢字の存在で、漢字を使うようになった騎馬遊牧民は漢民族と同化し、隋唐による統一の時代へと繋がっていきます。
北斉は北朝のなかでわずか二十八年しか続かなかった短命の王朝ですが、建国当初は一番精強で、天下を統一してもおかしくなかったほどです。それがなぜこれほど短期間で崩壊してしまったのか。その乱脈ぶりは中国史上にもあまり例がありません。
――最後に読者に一言お願いします。
田中 誰かひいきの人物ができたら、その人物に感情移入してどきどきしながら読んでいただければ嬉しいです。そしてもしご興味があれば、巻末に参考文献も載せておきましたので、読んでいただきたいですね。私は無限に転がっている素材のそのほんの一部を拾って、小説の形にしただけですから。ぜひもっと広くもっと深く、この時代の魅力を知っていただきたいと願っております。
(『蘭陵王』田中芳樹著・発売中)